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2013年7月4日木曜日

良書と悪書

良書と悪書

私は本を買う時出来る限り書評を信用しない。そういう本があるという存在を知るために書評欄に目を通すが、中身の事をあれこれ書いてあってもほとんどの場合割愛して読まない。ただ、手に取って中身を確認しようにも、この頃の書店の品揃えは大衆迎合、ポプュリズムの極致で週刊誌やマンガ本が大きく幅を利かせているのは嘆かわしい限りだ。ところが横浜の家の近くの書店はどういう訳か、あるコーナーに面白い本を集めている。品数は決して多い書店ではないが、このコーナーは面白い。IPS細胞の事が話題になればゲノムや遺伝子の本を並べリチャード・ドーキンスや福岡晋一を同じ棚に並べる。またある時はみすず書房の本ばかり集めてみるといった具合だ。私はパラパラと捲りながら、この本は良さそうだと思う本を抱えてレジに向かう。レジで支払いを済ませいそいそと自宅に戻り、一斉に読み始めるのだ。
大抵の場合、2.3冊は併読する。そして読み終わってさらに理解を深めたい場合にはその本をいったりきたりしながら読むのだ。その時は本のページは印を付けられ、時には赤いボールペンで線引きされる。
ようするに3冊のうち2冊はほとんど新しいままなのだ。そうした本がどんどん貯まっていく。立花隆氏のようにいくつもの書棚を持つ読書家なら本であふれかえるという心配は無用だろうが、私の家のよう蜑戸ではそれもままならない。高さは6メートル近くある本棚の一列目が埋まり、2列目も一杯になる。先の地震の時どうたったか心配されるかもしれないが、この時は一冊の文庫本が落ちただけで無事だったのだ。この本棚は家に直接作りつけられているのである。もしそうでなかったらと思うとぞっとする。
読みたい人に無償で譲るのはいいのだが、どの本が読みたいのかいちいち確認する作業が出来ない。中古の本屋に持って行っても二束三文にしかならない。第一、二束三文の本に利益を乗せて売られること自体、好きではない。
ずっと前に買っておいて読んでない本がある。ウォールデンの「森の生活」である。何故読まないのかと言うと、この本を読むゆとりがないのだ。この本は読む人を選ぶ。私にはおいそれと頁を開く事が出来ないのだ。ウォールデンが湖畔で自然との対話を楽しみながら執筆したこの本は自然への洞察が出来るようになった人間こそふさわしいと言っているようで仕方ない。まだまだ、政治や経済そして対話している相手の一挙一頭足が気になる私など及びでないのだ。まだまだこの良書を紐解く日は先になりそうだ。





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