この歳になるとあまり過去を振り返らない方が幸せなのかもしれない。2.3年前ならまだしも1年前の事でも自分が何をしていたかとなると全く覚えていないのだから。それでも私の場合はブログを続けて来た。ブログには日々の徒然が書かれているのでその時に何を考えていたのか文章を辿って断片は垣間見ることが出来る。
3年前、2010年の今頃を見てみると、結構いろいろな本を読んでいる。アマルティア・センの合理的愚か者を読んでホモエルゴノミクスとは何ぞやと考えていた。またフォン・フリードリヒ・ハイエクについて彼が新自由主義、新社会主義と呼ばれることへの疑問からハイエクのいうところの歴史無き場所で大掛かりな秩序を作る事を設計主義と呼び、全体主義の源になることの警鐘を考え、今の日本と照らし合わせていたこともあった。そして急に丸山眞男を調べてみたくなり彼の講義録を買い求め読みふけっていた。
あの年はまだ震災前だった。にもかかわらずどうだろう私自身の日本に対する閉塞感は今よりずっと強かったのだ。あのとき日本はどうにもならず沈没する気がしていた。何も手立ての無いまま船が海中に飲みこまれるのを待つような息苦しさだった。今はどうだろう。閉塞感が無くなった訳ではない。しかし、いずれ沈むかもしれないが何とかならないかとジタバタしている気がする。その分、息苦しさを忘れさせてくれるような気がするからだ。いや意識がもうろうとしているだけかもしれないのだが。
同じ頃、借りた目、借りた耳についても忠告している。この国に蔓延するこの二つの怪物は戦後日本の教育の荒廃により拡大続けた。そしてマスコミのポプュリズムらよって正当化された。それは今さらに拡大している。
倫敦のパブでは政治と宗教の話はしないという暗黙のルールがある。宗教や民族の対立が続いてきたお国柄当然と言えば当然だが、日本はどうだろう。無宗教の国民が大半この国では宗教の話しはすまい。政治の話とてあまり聞いたことがない。私は原発推進でも反対でもないが、原発事故直後、あたかも経験してきたような借りた目と耳で、国民に嘘を吹聴した人間が如何に多かったか記憶をたどってみるといい。もちろん大丈夫だと証拠もなく嘘をつく政治家も含めて。
メディアリテラシーなどという優しい言葉では足りない。この国には個人の思想がもはや宗教のごとく、その人間のみによって価値を持つ信条を平気で外部に向けて情報としてスピーチする。オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした時、ひとりひとりは普通の人なのに、個人の信条が教義と重なり増幅された時の恐ろしさはリトルピープルとして認知し経験したはずなのにもはや大衆は忘れてしまっている。
0 件のコメント:
コメントを投稿