ロマネ・コンティ
男の名前は今野禎三。友人は彼をコンティと呼ぶ。恐れ多くもあの偉大なワインの名前を諢名に拝借している。男は艾年をとうにすぎ60歳を目前にしていたが、身長は183センチでがっしりとした体躯、少し色黒な肌、鋭い眼光はとてもその歳には見えなかった。
男はヨーロッパやアメリカから食品を輸入する専門商社、その食材を使って展開する飲食チェーン、さらにその儲けた利益を効率よく運用する投資会社を所有していた。従業員数は延べにすると1000人を超える。欧米の一部の国では飲食店の出店の条件として現地の人間をある一定雇用しなければならない。幸いなことに禎三は英語、スペイン語、フランス語、ドイツ語を自由に操る事ができた。結果的に飲食店は国内だけでなく上海や北京、ニューヨーク、ロサンゼルス、地図上の大都市と思しきところに彼の店の看板を目にすることが出来た。ただしパリを除いて。
男はつい3日前に会社のすべてを譲ってきたのだ。
男には二人の子供がいた。長女はすでに結婚をしてボストンで暮らしている。相手の男はユダヤ系のアメリカ人でハーバードを出ていた。その男も長女も男の実家のことは決して口にしなかったが、禎三は結婚する直前に現地の社員を使って調べさせたことがあった。その調書によると男の父は世界的富豪の一族で兄弟には共和党の政治家や銀行の頭取もいた。そしてマンハッタンにいくつものビルも所有していた。ところが本人はお金や社会的地位には全く関心がなかった。夏の間は大学で数学を教えていたが、冬になると寒いボストンからフロリダに避寒して大道芸をして暮らしていた。夫婦は裕福ではなかったがとても幸せそうだった。
長男は今カンボジアにいる。長男は幼い頃から手が掛からない子だった。幼くして母をなくし禎三の手ひとつで育ったのに禎三を困らせたことは禎三が覚えている限りなかった。成績は飛び抜けていて塾に通うこともなく最難関の大学の医学部に現役で合格した。その後医師となった彼は日本の医療における国際貢献の一環として途上国の医療機関の整備についてそのガイドラインを整備する仕事をしていた。彼もまた薄給ではあったがとても幸せそうだった。
男が事業を譲った男は、今のビジネスを立ち上げた時から男の右腕となり尽くしてきた人間だった。男は数年前より全ての事業を彼に任せ引退することを決めていた。
男は数年前の検診で医師からある事を告げられていた。それまで馬車馬のように働き詰めで検診やドッグの類には行ったことのない禎三だったので医師に言われてもさほど驚かなかった。
禎三は子供の時に重い病気をして腎臓を取り出していた。禎三の身体には腎臓はひとつしかなかった。いつもの生活でそれを思い出すようなことはなかったので医師に言われて自分がそうだったことを改めて確認したようなものだった。
その医師によると禎三はウィルス性の肝炎を発症していた。子供の時の手術が原因だったのか今となっては調べる術はないのだが、血液等を介して感染する病気だった。現代の医療ではインターフェロンというこの病気の特効薬があり、殆どの場合ウィルスを除去できることになっている。
ところが禎三には問題があった。あまりに長い間放置していたこともあり、血小板が極端に減少していたのだ。この血小板を増加させない限りインターフェロンの治療は行えない。
禎三はその後数年間、社員や子供には何も告げずに一人で血小板を増加させる治療を続けていたが、血小板の数は良くなることも、また逆に低い数値に戻ったりの繰返しだった。
-つづく-
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