家守の話 建物の糊代
私も若い頃、会社の売上や従業員数など規模に拘っていた時期があった。友人が自分の会社をいち早く上場し、紙面を賑わせていたからだ。
丁度その頃、今ではコメンテーターとして引っ張りだこのプロデューサーであるある人からテレビに出ないかと誘われた、ある番組に毎週である。出演料はかなり良かった。しかし、この時あるときにある人に言われた。あなたは会社を大きくして何をしたいのですか。会社を大きくすることが目標なのですか、それとも何か違う目標があるのですかと。
目から鱗だった。サラリーマンの時の気分が抜けていない目標も見えていない。自分が何をしたいのか何が出来るのかもう一度考えなおさなければならなかった。
出した結論が「偉大なる商店」それが私の目標だった。近江商人の言葉に「一に相手によし、二に自分によし、三に社会によし」である。どんな仕事でも相手を困らせず、周りに迷惑をかけず、自分も含め三方両得をよしとする。それ以来、会社を大きくしようとか、従業員を増やそうとか思わなくなった。サービス業の基本は如何に相手に喜んでもらえるかである。相手に十分な利益をもたらさなければ評価は得られない。ただ急ぐあまり短期的であったり、周りに迷惑をかけたのではいけない。慎重に勘案しその事を進める必要がある。税務を専門にやっている人はその段の相続のみを考える傾向がある。ところが私達の仕事はその先の先まで俯瞰しておかなければならない。
江戸時代の横丁の親爺は昼間から油を売ってはいるが、どうしてそのあたりは気配り、目配りをしているのである。大工の八っつあんに仕事がなければ、壊れた屋根の普請の仕事を作り、赤子に熱が出て仕事に入れないヨネさんのところの家賃をひと月待ってあげ、挙句の果てに夜逃げの手助けだってする。ようするにそうした一切合財をしながら総じて家主に利益をもたらす訳である。
もうひとつ現代の家守はコダワリ屋でなければいけない。何もこだわらずどこ吹く風といなせに振る舞うのもカッコいいのは承知であるが、やはり拘りを持っていなければならないと思うのだ。どんなものがかっこよくて、どんなものがかっこ悪いのか、自分の流の審美眼である。建物のデザインというものは流行がある。これは仕方がない。だがこれとて糊代をもたせることは出来るのだ。住宅ならば施主が自分の好きな様に建てればよいし一向に構わない。ただし事業用は別だ。施主が連れてきた設計士による事業用の建物を多く見てきたがこの事が顕著に現れる。そういち早い陳腐化である。それとてもっと古くなればそれはそれで骨董とかビンテージと呼ばれ価値も残るが、少し前に流行ったというのが一番いけない。これはもうガラクタ、カッコ悪いとしか言われない。では何が糊代なのか。それはぎりぎりの予算で作ることだ。贅沢を切り落として出来るだけシンプルに作る。これに尽きる。建物の糊代、家守の話でした。(写真はイメージです)
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