若い頃、某大学の建築の研究室に通っていたことがあった。家守の仕事に建築は欠かせない、ところが大学では建築について残念ながら何一つ学ぶ機会が無かったからだ。
その教授はある地方の特色を活かして、その街の名前を人口に膾炙することに成功した。街の名前は喜多方である。近年では喜多方ラーメンとしても知られているが、その街には多くの土蔵が残っていた。それを活かして観光資源としたのである。
仕事柄多くの再開発を見てきた。推進役としての場合もあるし、反対に居住者としての場合もあった。開発には多くの資金がいる。結果、大企業による開発がその大半を占める。私はこうした開発が駄目だと言うつもりはない。こうした巨大な開発によって、これまた巨大な箱が出来上がる。この箱はいわばびっくり箱である。日常を忘れて、テーマパークとして人々は楽しむ。巨大な仕掛け装置そのものなのだ。
ところが街づくりとなると様相が異なる。当時恵比寿のそれは渋谷区で最後の開発事業と言われた(そんなことはないその後の開発もあった)。道を挟んでその土地を所有している人が、開発が終われば、賃料は倍近くになると鼻高々に自慢していた。ところが賃料は上がるどころか、開発の前より下がり、テナント誘致もままならない。結果、多額の負債を抱え処分することになってしまった。
この例を挙げるまでもなく、開発によって周辺が潤うということは非常に少ない。ないとは言わないが、ほとんど影響しないといったほうが正しいと思う。
地方都市に行くと今でもアーケード街を目にする。色々なタイプのアーケードがあるので一言では言い表せないが、あのアーケードというのも巨大な箱の開発に似ている。つまり恩恵を受ける内側とほとんど受けない外側に大別されるからだ。アーケードの外側には人々はほとんど足を向けなくなる。結果、都市の回遊性は歪められる。
ではどういう開発がその街にとって良い開発なのだろうか。代官山を例に上げると、この街の発展はまず渋谷のエスケープゴートとしてトレンドに敏感なアパレルが移動してきた。80年代のことだ。当時はまだ一種住専により建築上の規制が厳しく、低層階の建物しか建築できなかったが、そのため環境は保全され、ヒルサイドテラスは後世に名を残す名建築となったわけである。一方、その後八幡通りにも中小のブティックや飲食店が出来始めた。同潤会は建物の経年寿命は既に過ぎていたが、古い建物の中には魅力的な専門店が集まっていた。これらの点と点が互いに引きつけあい、代官山はトレンドセッターとしての地位を向上させた。ところがそれに目をつけた大手資本が同潤会の解体と新たな建物建築を推し進めたのである。出来上がったものは大きな箱。もともとあった小さな点の連続性は消え失せ、大資本、ナショナルチェーンの店が名を連ねた。周辺の賃料は一時的に高騰したが、中小や若手のデザイナーはこうしたポプュリズムが蔓延し賃料が高額化した代官山を嫌い、空室率は上昇し、賃料も下落した。商業ビルのテナント誘致もままならず、結果、当初のファッション性は消え失せ、今やベビーカーの展示場となってしまった。
街づくりをしたいのなら、点の連続を分断してはならない。大手資本が進出しているにも関わらず裏原宿といわれるエリアの元気が良いのはこの連続性を保っているからだ。私のいる中目黒も同様、大手資本が進出しているが一見するとそれが大手なのか分からないように、街の中に溶け込み自然な顔を作っている。そしてもうひとつ肝要なのが多様性ダイバーシティである。色々な業種が混在し街を作る必要がある。目黒通りは、この20年で家具通りと呼ばれるまで家具店が増えた。20年前はファミレスと自動車ディーラーが点在する城西地区の典型的放射道路だった。それがこの変わり様である。近年では夕方からワイングラス片手に入店待ちの客が列をなす飲食店や、女性シェフの男っぷりの良い料理が客を楽しませてくれるイタリアンなどまだまだ少ないが魅力的な店も増え始めた。それが根付いてくれればきっとよい街並みが出来上がるだろう。そう街は人が創るものだからだ。
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