東日本大震災から3年がたつ。私はあのとき比較的に多くの物事を俯瞰してみることができていたような気がする。何故なら、腰痛をブロック注射までして無理をした結果、背筋が肉離れを起こして動くこともままならなかったからだ。
多くのニュースで日一日亡くなる人の数が増えていった。それはまるで何かのカウンターによって計られた機械的なもので人の死とは無縁のような形で。そして流言飛語、会社のスタッフには友人からメールが届き、千葉にある精油所が爆発してガソリンが足らなくなると真顔な話が流されていた。東電の幹部という人から聴いた話というのも流れていた。もはや、日本中が放射能汚染になり、国民はほとんど死に至ると。劇場化したマスコミもそうした話はすぐ取り上げる。実際に東京を離れて関西に移り住んだ人も多くいた。
コンビニからカップ麺がなくなり、トイレットペーパーも、携帯ガスボンベも無くなった。私はその体だったので車が無ければ移動できなかった。それでも車を使ったのは震災から5日が経った時だった。ガソリンスタンドでは長蛇の列。出来るだけ燃料を使わないように意識した。スタンドの人に聞くといつも滅多に来ないような人がガソリンの針が一メモリが減ったからといって2時間も長蛇の列に並んでいるとのことだった。
困ったのは停電だった。私達の生活の多くが電力に頼っていることが分かった。
ところが昨年の夏場のピークでも計画停電はなかった。停止している発電所が再稼働したというニュースを聞いたわけでもないのにどうして大丈夫なのだろう。もしかしたら当時の停電もパニック心理だったのではあるまいか。そう疑ってしまう。
先日、大雪で3日間軽井沢に閉じ込められた。鉄道、道路とも完全に閉鎖され陸の孤島となった。運転手の多くは何とか行けるだろうと無理をして碓氷バイパスに集中した。まるであのときの都内の道と同じに車が一箇所に集中した。道路が開通していない事は分かっていても車を出発させ戻れなくなりレスキューしてもらった人もいた。コンビニからカップ麺はなくなり、パンも姿を消した。私はあのときの経験からなるようにしかならないと居を移さずじっとしていた。予定していた期間を大幅に超えたので予備の犬のご飯も残り少なくなった。開いている店を探して雪の中歩いて買い物に行こうとすると、見ず知らずの女性が分けてくれた。とても安心した。私達は毎日同じ料理を食べながらも、食にありつけ、暖かい寝床があることに感謝した。
大衆の心理というものは極端になりがちだ。リスクを過度に感じたり、逆に鈍感であったりする。どちらも良くない。津波の災害を避難するような過急な場合以外は出来るだけ動かずじっとしている。それがあの震災から学んだことだ。昨日もラジオから大震災の際には車の使用を控える旨の放送をしていた。控える旨ではなく、強制的にも禁止するべきだと思う。軽井沢でも救急車が動けなかったのだから。
あの日もやってきたヒヨドリは私たち人間を見てどう思っているのだろう、いつか尋ねてみたい・・・
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