久々にソシュールやロランバルトの本を読んだ。この頃自分の使う言葉について何となく違和感を感じていた。もっともその最たるは気象庁が新たに取り入れた気象用語であり、その言葉を連呼するテレビのアナウンサーであった。
言葉は時代と共に変化するし、その文化に内在される差異性を含有する。言いかえれば一つの文化が他の文化に吸収、併合されれば言葉はその意味を失う。
近頃は言語論というものは大学で学ばないであろろうか。言葉を軽視するこの傾向はもはや止める手立てもないものなのだろうか。
政治家の使う言葉も貧相である。言葉から自己弁護と自己欲求の顕れが垣間見得る。国民にエクスキュースする自信の無さが言葉から伺われる。
バルトは日本は「記号の国と言っていた。これほど多くの記号が氾濫する国は珍しいらしい、いや待てよ私達はそれ故言葉を大切にしなくなったのか・・・・記号化された文脈で人々はお互いを認識しているそういうことなのか・・・・
いずれこの国の言葉どうなってしまうんだろう、AKBなんとかSTBなんとかとか全て記号化されていくのだろうか、子供の名前もAZB1なんて呼ぶ日が来ないとも限らない・・・
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2012年7月17日火曜日
ギリシャ化する日本
昨日のデモでどのくらいの人が足を奪われて、大変な目にあったのだろう。休日とて働いている人はいるのだし、折角の行楽に出かけた家族連れは散々な目に会った事だと思う。
言っておきますが私は原発推進派ではありません。原発は無くなって新しいエネルギー政策に転換されるべきだと思うし、政治にそのインフラの整備を求めています。
私が言いたいのはあれだけ多くの人がきちんとした思想信条をもって参加しているのかという問題です。
私の知り合いは時給いくばくかのお金を受け取り組合から要請されて参加していた人もいます。
私は組合というものに懐疑的です。私が勤労奉仕していた某組合での経験から、組合が組合員から搾取する構図を良く見てきたからです。結局、ソビエトのそれが官僚社会的組合の自己保身と垂直性に他ならないのと同じ事です。
なんだかニュースを見ていて、ギリシャ国民が行っていたデモとオーバーラップします。
ギリシャの国民はあれだけ自国が衰退し、国際社会から非難を受けているにもかかわらず自分達の既得権益を守るために国民が「正しい」という唯一理念のため動き出す。
そうです、丸山眞男の言った「キヨキココロ」そのものです。
昨日のでも参加者の中には福島から参加した人もいて、マスコミは正義の味方とばかりこうした人を取り上げます。これが問題・・・テレビを見ている人は何も考えず自分の感情移入をしてしまう。
私達より先に生まれた多くの人はマルクスやレーニンを学びました。知識人といわれる多くの人がこの思想的影響を受けているのです。もちろん社会主義は泡沫と消えました。だから、だれしもがマルクス主義のようにならないことは理解しているのに体にしみ込んだ匂いのように何かが起こると現れてくる、いわばマルクスの亡霊のようなものを抱え込んでいるようです。
理論的と言われる人達も一たびこの亡霊にやられると感情的になり、「キヨキココロ」が発動されるのです。
壊し屋の異名をとり、新しい政党を作った人は理念も無く原発反対をうたっています。ポプュリズムとはこうした人達の事をいうのに、デモに参加した人たちはこの人たちに国政を任せるつもりなのでしょうか。
日米安保、沖縄の米軍基地、中国との領土問題、そして韓国との関係・・・我々は総合的に考えなければならない問題を多く抱えているのにマスコミはすぐに白黒つけたがります。
多くの問題はとても複雑で白黒付けられるようなものではないのに国民が単純化した理論を選んでいるようで私には末恐ろしくなるのです・・・・
言っておきますが私は原発推進派ではありません。原発は無くなって新しいエネルギー政策に転換されるべきだと思うし、政治にそのインフラの整備を求めています。
私が言いたいのはあれだけ多くの人がきちんとした思想信条をもって参加しているのかという問題です。
私の知り合いは時給いくばくかのお金を受け取り組合から要請されて参加していた人もいます。
私は組合というものに懐疑的です。私が勤労奉仕していた某組合での経験から、組合が組合員から搾取する構図を良く見てきたからです。結局、ソビエトのそれが官僚社会的組合の自己保身と垂直性に他ならないのと同じ事です。
なんだかニュースを見ていて、ギリシャ国民が行っていたデモとオーバーラップします。
ギリシャの国民はあれだけ自国が衰退し、国際社会から非難を受けているにもかかわらず自分達の既得権益を守るために国民が「正しい」という唯一理念のため動き出す。
そうです、丸山眞男の言った「キヨキココロ」そのものです。
昨日のでも参加者の中には福島から参加した人もいて、マスコミは正義の味方とばかりこうした人を取り上げます。これが問題・・・テレビを見ている人は何も考えず自分の感情移入をしてしまう。
私達より先に生まれた多くの人はマルクスやレーニンを学びました。知識人といわれる多くの人がこの思想的影響を受けているのです。もちろん社会主義は泡沫と消えました。だから、だれしもがマルクス主義のようにならないことは理解しているのに体にしみ込んだ匂いのように何かが起こると現れてくる、いわばマルクスの亡霊のようなものを抱え込んでいるようです。
理論的と言われる人達も一たびこの亡霊にやられると感情的になり、「キヨキココロ」が発動されるのです。
壊し屋の異名をとり、新しい政党を作った人は理念も無く原発反対をうたっています。ポプュリズムとはこうした人達の事をいうのに、デモに参加した人たちはこの人たちに国政を任せるつもりなのでしょうか。
日米安保、沖縄の米軍基地、中国との領土問題、そして韓国との関係・・・我々は総合的に考えなければならない問題を多く抱えているのにマスコミはすぐに白黒つけたがります。
多くの問題はとても複雑で白黒付けられるようなものではないのに国民が単純化した理論を選んでいるようで私には末恐ろしくなるのです・・・・
2012年7月13日金曜日
責任を取らない大人達
久々の内田先生の本、この手の話題になると俄然、筆致が良くなって一気に読者を引きずり込む先生の本です。
私は大学の3年生の後期に突然何を思ったか教職を目指し、普通なら少し暇になる文系の学部で1.2年生に交じって学科を受講したのでありますが、その私が教職を諦めたのが何を隠そう教育委員会という代物でした。
高い希望と志しを持っていた若者にとってその得体のしれない組織はまるで形の無い「怪物」そのもので、若者の出脚をくじくのには十分すぎるものてした。
時は変わって現代、この教育委員と言う代物は当時よりさらに大きくなっているような気がします。
自殺した自治体の教育委員の口から聞こえるのは「私達は悪くない、私達は知らなかった」という無責任な発言ばかりです。
先生のこの本にもそんな責任を取らない大人達が登場します。
私の周りでも何かにつけて書面だの契約書だのと言う先達がおります。
弊社の顧問弁護士に言わせればどんなに細かく文章で取り決めをしても、守る気持が無ければ無意味だし、言葉の多すぎる契約書ほど浅はかさを感じると言っていた事を教えてあげたい位です。
しかしながら、こうした形式に頼る大人の多くは私に言わせれば「失格者」なのです。
物事の本質から遠ざかりわざと見ないようにしている輩なのです。
経済的な失格者もいれば、家庭の失格者、教育の失格者色々です。どれも共通するのは己が失格者と理解していないことです。
以前にも現代は自己愛過剰社会だと指摘した事があります。
私の周りにも不妊治療に悩む夫婦も多く、こうした人には酷なのですが、一般的に子供を育てるということはこの自己愛にブレーキをかけざるえません。結果、自己愛以上に大切なものを理解します。
こうしたことで大人が大人になっていくのではないかとも感じられます。
自己責任を取らない大人達の多くは自己愛過剰者です。そうした人しか組織に残れないようであれば先生の指摘するようにこの国も沈みゆく国なのです。
今真に必要なのは多様性と柔軟性です。硬直した日本社会に誰か鉄槌を加えてほしいと願うばかりです・・・・
閑話休題
NHKの番組でオリンパスの飛ばし問題を指南したと言われる人達が映っていました。彼らは自分たちの行為が悪かったなどと思っていません。逆にやりすぎたから逮捕されたんだと反省するどころか、居直っています。
しかし、顔が宜しくない。金の亡者は顔に現れるというがそのとおり。誰しもその形相でした。
私もまだ山一証券が健在だった頃、後輩に株を勧められお付き合いした事があります。
結果、損失を出したのですが、株は儲かる時もあれば損をする時もあるのだから自己責任です。後輩を恨んだことなどありません。ただ、悲しいのはその後その後輩が二度と私の所にやってくる事の無かった事と、そうした行為を当たり前として営業していたその会社そのものです。
娘の勤めている会社は社員に生徒を集めさせます。生徒が集まらないとその先生の責任となり社員から嘱託社員にさせられるような会社です。娘もその事は分かっていても性分からか無理に生徒を集めようとはしません。私はそれで良いとも思っています。
こうした会社が長続きする道理がありません。顧客ロイヤルティの究極の質問とは何だかご存じですか?それはその企業や製品を自分の一番親しい人に勧められるかというものなのです。
そんな企業勧められるわけがありませんから・・・・
私は大学の3年生の後期に突然何を思ったか教職を目指し、普通なら少し暇になる文系の学部で1.2年生に交じって学科を受講したのでありますが、その私が教職を諦めたのが何を隠そう教育委員会という代物でした。
高い希望と志しを持っていた若者にとってその得体のしれない組織はまるで形の無い「怪物」そのもので、若者の出脚をくじくのには十分すぎるものてした。
時は変わって現代、この教育委員と言う代物は当時よりさらに大きくなっているような気がします。
自殺した自治体の教育委員の口から聞こえるのは「私達は悪くない、私達は知らなかった」という無責任な発言ばかりです。
先生のこの本にもそんな責任を取らない大人達が登場します。
私の周りでも何かにつけて書面だの契約書だのと言う先達がおります。
弊社の顧問弁護士に言わせればどんなに細かく文章で取り決めをしても、守る気持が無ければ無意味だし、言葉の多すぎる契約書ほど浅はかさを感じると言っていた事を教えてあげたい位です。
しかしながら、こうした形式に頼る大人の多くは私に言わせれば「失格者」なのです。
物事の本質から遠ざかりわざと見ないようにしている輩なのです。
経済的な失格者もいれば、家庭の失格者、教育の失格者色々です。どれも共通するのは己が失格者と理解していないことです。
以前にも現代は自己愛過剰社会だと指摘した事があります。
私の周りにも不妊治療に悩む夫婦も多く、こうした人には酷なのですが、一般的に子供を育てるということはこの自己愛にブレーキをかけざるえません。結果、自己愛以上に大切なものを理解します。
こうしたことで大人が大人になっていくのではないかとも感じられます。
自己責任を取らない大人達の多くは自己愛過剰者です。そうした人しか組織に残れないようであれば先生の指摘するようにこの国も沈みゆく国なのです。
今真に必要なのは多様性と柔軟性です。硬直した日本社会に誰か鉄槌を加えてほしいと願うばかりです・・・・
閑話休題
NHKの番組でオリンパスの飛ばし問題を指南したと言われる人達が映っていました。彼らは自分たちの行為が悪かったなどと思っていません。逆にやりすぎたから逮捕されたんだと反省するどころか、居直っています。
しかし、顔が宜しくない。金の亡者は顔に現れるというがそのとおり。誰しもその形相でした。
私もまだ山一証券が健在だった頃、後輩に株を勧められお付き合いした事があります。
結果、損失を出したのですが、株は儲かる時もあれば損をする時もあるのだから自己責任です。後輩を恨んだことなどありません。ただ、悲しいのはその後その後輩が二度と私の所にやってくる事の無かった事と、そうした行為を当たり前として営業していたその会社そのものです。
娘の勤めている会社は社員に生徒を集めさせます。生徒が集まらないとその先生の責任となり社員から嘱託社員にさせられるような会社です。娘もその事は分かっていても性分からか無理に生徒を集めようとはしません。私はそれで良いとも思っています。
こうした会社が長続きする道理がありません。顧客ロイヤルティの究極の質問とは何だかご存じですか?それはその企業や製品を自分の一番親しい人に勧められるかというものなのです。
そんな企業勧められるわけがありませんから・・・・
2012年7月12日木曜日
戦前の国家構造と思想 平賀粛学
平賀粛学という言葉をご存じの方は政治学、行政学の興味をお持ちの方と見受けられますが、読んで字のごとく東京大学総長である平賀氏が喧嘩両成敗の信条にて左派と右派の両教授を教授会の了承も得す゛独断で辞職させた事に端を発する大量辞任劇のことです。
以前にも書きましたが、戦前の国家思想と言うのはともすると全体主義一本やりのように思われますが、農本主義、社会民主主義など多くの思想的発展がみられるのです。
例えば蝋山政道という政治行政学者がいました。彼は上段の平賀粛学に抵抗して同学を辞しています。彼の子供は多く、その一人の道雄は私の大学の名誉教授でもあり、子だくさんゆえ左から右まで多くの論客を配し、私はその真ん中と冗談まじりに話していたとも聴きます。
こうした戦前の思想を振り返ると国民とマスコミの視点と、これらの学者や官僚の視点がずれている事に驚かされます。
学者や政治家のほとんどは日米開戦には消極的でした。それが何故圧倒的国民の声として戦争に向かう羽目になったのかを鳥肌の立つような気持で時代の流れを感じずにはいられません。
どこかの政治家が国民の幸せが一番と言うまさに戦前のデマゴーグのような政党を立ち上げました。
国民に委ねることが如何に危険か、そしてそのようなポプュリズムに呼応するマスコミの破廉恥さを彼らは知る由もありません。
アカデミズムが自尊と権威を失った今、私達の真のリーダーはどこに存在するのでしょう。
国会の論戦を聴いていても何一つハッと驚かされるような発言はありません。官僚や秘書の書いたシナリオを読んでいるだけの感です・・・・・・・・・・
以前にも書きましたが、戦前の国家思想と言うのはともすると全体主義一本やりのように思われますが、農本主義、社会民主主義など多くの思想的発展がみられるのです。
例えば蝋山政道という政治行政学者がいました。彼は上段の平賀粛学に抵抗して同学を辞しています。彼の子供は多く、その一人の道雄は私の大学の名誉教授でもあり、子だくさんゆえ左から右まで多くの論客を配し、私はその真ん中と冗談まじりに話していたとも聴きます。
こうした戦前の思想を振り返ると国民とマスコミの視点と、これらの学者や官僚の視点がずれている事に驚かされます。
学者や政治家のほとんどは日米開戦には消極的でした。それが何故圧倒的国民の声として戦争に向かう羽目になったのかを鳥肌の立つような気持で時代の流れを感じずにはいられません。
どこかの政治家が国民の幸せが一番と言うまさに戦前のデマゴーグのような政党を立ち上げました。
国民に委ねることが如何に危険か、そしてそのようなポプュリズムに呼応するマスコミの破廉恥さを彼らは知る由もありません。
アカデミズムが自尊と権威を失った今、私達の真のリーダーはどこに存在するのでしょう。
国会の論戦を聴いていても何一つハッと驚かされるような発言はありません。官僚や秘書の書いたシナリオを読んでいるだけの感です・・・・・・・・・・
2012年7月7日土曜日
4つの親業
誰かが言っていました。人間は生まれてくる事は選べないけど、死ぬことは選べると。同じようなことがネイティブインディアンの格言にもあるらしいことを最近知った。
テレビのニュースに出てくる虐待死させた親の話や、パチンコに夢中になって車内に置き去りにした子供が死亡する事件の多くの親たちは生物学的に言っても親失格である。
生物は自らのDNAを後世に伝える役目を負っている。そのためなら、自らの命を顧みないほどこの生命の連鎖は高尚なものなのだ。
子供は父親、母親両方の遺伝子を受け継ぐ。どちらか一方ということはありえない。たとえ姿形が母親そっくりでも、父親の面影を見ることはできる。子供を見れば親が分かる喩えどおり。
私には一男一女の子供がいる。それぞれ自分の好きなようにやらせている。ただそのつもりでも親の影響を受けていないかといえば嘘になる。
私は子供たちに決めた事が二つある。それは私たちの持つ政治心情や宗教を子供に共有させないというものだ。この二つは小さな子供であればあるほどその後の人生に影響を与える。良い影響も悪い影響もあるであろうが、私は子供たちにこの2点においてはできる限りニュートラルであって欲しいと思っているからだ。
安藤忠雄氏の話を持ち出していかに子供を「リリース」することが大切なのか語ったこともあるのだから、一応は子離れのその大切さも知っている。でも、中々、多くの親がそうであるように「割り切れない」ものなのである。
子供を一人の人格として扱え、ごもっともなお話である。ただ、子供は子供である。私が100歳になって子供が50歳を過ぎても子供は子供なのである。
親業には4段階あるらしい。第一段階は子供におっぱいを飲ませている時期。そして第二段階は子供が成長しながら社会性を身につける時期。第三段階は子供が実社会に出て色々な経験をつむ時期。そして第四段階は子供が家を出て、新しい家族を作る時期だそうだ。
そう第四段階でも親業は親業なのだ。ただ、それ以前の親業とは違う親業であることは確かだが、親子の縁は切れない。そういうことなのだと思う。
みなさんちゃんと親業やっていますか???
テレビのニュースに出てくる虐待死させた親の話や、パチンコに夢中になって車内に置き去りにした子供が死亡する事件の多くの親たちは生物学的に言っても親失格である。
生物は自らのDNAを後世に伝える役目を負っている。そのためなら、自らの命を顧みないほどこの生命の連鎖は高尚なものなのだ。
子供は父親、母親両方の遺伝子を受け継ぐ。どちらか一方ということはありえない。たとえ姿形が母親そっくりでも、父親の面影を見ることはできる。子供を見れば親が分かる喩えどおり。
私には一男一女の子供がいる。それぞれ自分の好きなようにやらせている。ただそのつもりでも親の影響を受けていないかといえば嘘になる。
私は子供たちに決めた事が二つある。それは私たちの持つ政治心情や宗教を子供に共有させないというものだ。この二つは小さな子供であればあるほどその後の人生に影響を与える。良い影響も悪い影響もあるであろうが、私は子供たちにこの2点においてはできる限りニュートラルであって欲しいと思っているからだ。
安藤忠雄氏の話を持ち出していかに子供を「リリース」することが大切なのか語ったこともあるのだから、一応は子離れのその大切さも知っている。でも、中々、多くの親がそうであるように「割り切れない」ものなのである。
子供を一人の人格として扱え、ごもっともなお話である。ただ、子供は子供である。私が100歳になって子供が50歳を過ぎても子供は子供なのである。
親業には4段階あるらしい。第一段階は子供におっぱいを飲ませている時期。そして第二段階は子供が成長しながら社会性を身につける時期。第三段階は子供が実社会に出て色々な経験をつむ時期。そして第四段階は子供が家を出て、新しい家族を作る時期だそうだ。
そう第四段階でも親業は親業なのだ。ただ、それ以前の親業とは違う親業であることは確かだが、親子の縁は切れない。そういうことなのだと思う。
みなさんちゃんと親業やっていますか???
2012年7月6日金曜日
自由について とある若者との会話から
何気ない会話の中で私が20代後半と思しき若者に「自由とは何だろうね」と私が独り言のようにつぶやいたら、若者はすかさず「決まってるじゃないですか。自分を変えることです」と胸を張って言い返してきた。私は下を向きながら「そうだね」とボソッと答えたが、心の中に遠くの春雷の音がこだましていた。
もちろん若者の答えも正しいと思う。ただ、「自由」とはそんな簡単なものでは無い気もする。
私の祖母は満州からの引き揚げの時に弾丸が顔のすぐ近くをかすめ、命からがらに逃げて来た。その時に祖母はどうか普通の生活が出来るようにと願ったそうだ。
ある雑誌のコラムにフランス人の俳優でもありプロデューサーのピエール・パルーのコラムが載っていた。彼はクロード・ルルーシュ監督の「男と女」にも御亭主役で出演していた。トランディニァンのことは皆さんもご存じだろうが、この人の事は案外知らない。この人の父親や母親はトルコ系ユダヤ人で、それは大変な苦労をしてヨーロッパを遍歴しながら彼らを育てたのである。彼はその父親たちの「自由」と私の「自由」そして娘の「自由」はそれぞれ違い、同じものではないと言っていた。
私も彼の意見に賛同する。そして最後に彼は当たり前の自由は人を不自由にするのではないかと締めくくっていた。
私も含めて生まれながらにして自由が当たり前のようにこの国には存在する。自由が奪われるなどと言う事は微塵もないと考えることもしない。
学校は教える。自由は権利であると。若者が自由を無限大の大きさに解釈し考えるのも無理からぬ話である。
権利の行使できない社会において、自由とは何なのか世界中を見渡せばいくらでもある。そうした国の人に「自分を変える」と言ってもピンとこないだろう。その世界にはその世界の自由がそんざいするのだから。
もちろん若者の答えも正しいと思う。ただ、「自由」とはそんな簡単なものでは無い気もする。
私の祖母は満州からの引き揚げの時に弾丸が顔のすぐ近くをかすめ、命からがらに逃げて来た。その時に祖母はどうか普通の生活が出来るようにと願ったそうだ。
ある雑誌のコラムにフランス人の俳優でもありプロデューサーのピエール・パルーのコラムが載っていた。彼はクロード・ルルーシュ監督の「男と女」にも御亭主役で出演していた。トランディニァンのことは皆さんもご存じだろうが、この人の事は案外知らない。この人の父親や母親はトルコ系ユダヤ人で、それは大変な苦労をしてヨーロッパを遍歴しながら彼らを育てたのである。彼はその父親たちの「自由」と私の「自由」そして娘の「自由」はそれぞれ違い、同じものではないと言っていた。
私も彼の意見に賛同する。そして最後に彼は当たり前の自由は人を不自由にするのではないかと締めくくっていた。
私も含めて生まれながらにして自由が当たり前のようにこの国には存在する。自由が奪われるなどと言う事は微塵もないと考えることもしない。
学校は教える。自由は権利であると。若者が自由を無限大の大きさに解釈し考えるのも無理からぬ話である。
権利の行使できない社会において、自由とは何なのか世界中を見渡せばいくらでもある。そうした国の人に「自分を変える」と言ってもピンとこないだろう。その世界にはその世界の自由がそんざいするのだから。
魚の話
我が家にはこの手の魚の本があと4.5冊はある。中でも東海大学出版会から出ている南日本の沿岸魚を取り上げた魚類図鑑は愛読書である。
なんで魚にそんなに興味があるのかと言えば、生まれ育った家のすぐ後ろに渡良瀬川が流れていて、子供の頃の遊びはもっぱら川遊びだったからかもしれない。
当時の渡良瀬川の水質は悪く、生活用水は垂れ流されていた。そんな汚れた水質でも6月のある一日(特異日)にはハヤ(うぐい)が浅瀬にやって来て一斉に散乱する様や、大雨の後に大きな鯉や亀が浅場に取り残される姿を見ていたので魚に触れる機会が多かったのである。
片や食べる方になると、当時の輸送事情を鑑がみてもわかるように新鮮な海の幸は口に入らなかったのである。刺身と言えばせいぜい、まぐろでそれもとても上等な代物とは言い難いものだった。
東京に出てきて叔父が始めて食べさせてくれた江戸前の寿司の美味しかった事は今でも忘れられない。それほど当時の地方は新鮮な魚がなかったのである。
では川魚はと聞かれれば、確かに清流にはイワナや山女もいたが、いつも遊んでいた川の汚れのせいか、魚を取って食べるという気はしなかった。
魚の中で好きな魚と聞かれれば、私は断然「櫨」である。私の大先輩にして私の釣りの師匠でもあり、ハゼの美味しさを教えてくれたKさんに感謝申し上げたい。こんなに美味しい魚がこんな近くにいることを教えてくれたのだ。
ハゼはまず天麩羅、これも最初は塩で食すのが良い。そして大きめが釣れたなら刺身にする。透明な身はやわらかく、臭みもなく最高の食感である。旬のハゼならうっすらと醤油に油が浮くはずだ。また、肝も良い。胆を醤油にまぶして刺身を戴けば、カワハギのそれより高尚でオツな味がすること請け合いである。
ハゼに近い味がするものに、ねずみごちがいる。通称、ネズッポ。ぬめぬめしているのでヌメリゴチともいうが味はハゼに劣る。
魚と言うのは獲れる場所や時期によっても美味しさが違う。ブランドになった関アジもそうであるように、鎌倉周辺でも特に腰越で捕れるアジは最高である。どうも海底の地形や潮流にも関係するらしい。
このところ不漁続きのシラスがやっと獲れるようになってきたと聞く。3月の漁が始まってから3カ月不漁が続いた。このシラスも獲れる場所によって味が異なる。太平洋沿岸では色々な場所でこのシラスは獲れるようだが、私の経験則によれば材木座のシラスは抜群である。もっとも、料理屋や魚屋に並ぶものでは駄目だ。シラス漁師のところに直接買いに出掛け、今取れたばかりの物を買うのである。
買ってきたらとにかく冷たい流水で良く洗う。雑菌を繁殖させないためだ。そして出来る限り早く食す。
生姜醤油の定番以外にも、胡麻油と卵であえて熱いご飯にかければ至福の一杯の出来あがりである。考えていたら朝から無性に食べたくなった。お腹がギュゥーと音がしはじめたのでお仕舞いにしよう。
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