今、朝食を終えイノダコーヒーを飲みながら、ローリングストーンを聞きながらディスプレイの前に座っております。
私などが村上春樹氏を論ずることはおこがましいことは分かっておりますが、ふと想った事を綴ってみました。
以前、司馬遼太郎氏の著作は海外ではほとんど翻訳されていないことに比して、村上春樹氏のものは我も我もという活況だと書いたことがあります。
その理由として「比較」できる文学であることが重要な要素だとも書きました。
今回、BOOK3を読み終えて、もうひとつ気になることがありました。それは「普遍性」の裏側にある「存在」です。普遍性できなく、個々の読み手によってどうにでも解釈できる「可変性」です。
ある読み手には「大きな公園」となり、別の読み手には「小さな公園」となりえるのです。
彼はそのことを「メタファー」していません。つまり、頭の中にすっと入って我々の記憶や体験を引き出していくのです。このことが海外でも日本でも読まれる一つの要素のような気がします。
フリオ・コルタサルの短編集に収められた「南部高速道路」も似た性質を帯びています。
その道路やロケーションも知らないのに人々の頭の中で組みたてられていく臨場感と寂寥感です。
好き嫌いは別として村上春樹氏の小説について考えました。
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