先日、20代と思しき人たちの会話を聞いてあることを考えました。
彼らは大学は出たけれど入社した会社は2流で、自分たちには将来もなく、家を買うことはもちろん、車を買うことも結婚することも諦めたというのです。
世の中によく居る人たちかもしれない。
良く言えば物質的な欲求が少ないのです。
しかし、歳をとって分別したなら理解しますが、その年齢にして私欲がないというのは困りものです。
そう「無私の功罪」というやつです。
私は若い頃に私欲にかられてこの「あがく」ことをしなかった人間を信用しないことにしています。
そんな若い頃の「あがき」を経験してこそ、無欲の大切さを学ぶことができると思うからです。
40歳をすぎて毎年1つボランティアをしています。公園の草取り、道路のごみ拾い、盲導犬団体への寄付なんでもいい、見かえりを求めない行動です。
でもボランティアの本質はボランティアを通じて幸せをこちらが戴いていることでもあるのです。
幸せは「与え、与えられ」なのです。
前述の彼らは「与えられ」を待っているだけなのです。これこそ「神の幸福の配分」というものです。
私はキリスト教徒でも仏教とでもありません、しかしこの配分は真理をついていると感じます。
0 件のコメント:
コメントを投稿