背広を着たゴロツキとはニシベサンよく言ったものです。その当人を検察が起訴しない案件を検察審査会が「起訴すべし」と判断したことは我が国の刑事裁判の構造的問題を孕んでいることを露呈しているのです。
検察審査会のこの制度は、裁判員制度の導入と無関係ではありません。
ご存知ののように我が国の刑事裁判の有罪率は先進国の中で群を抜いているのです。いうなれば検察絶対の神話の上に成り立っているのです。裁判所に求められるのは髪の毛一本に至るまで厳格な審査とそれを立証する証拠です。裁判所のストレスや相当なものです。
人間の判断に絶対はありません。裁判所が国民に「一緒にやりましょうよ」と一段下がることは大いにありでしょう。しかしながら検察の内部に染み込んだ自らが絶対ヒーローとしての盲信は簡単にはなくなりません。起訴したものは何が何でも有罪にする剛腕の手法がとられるのもそのためです。
審査会が「起訴すべし」とする案件はそもそも有罪かどうか微妙な線であるが、社会通念上も起訴すべしと判断したものなのです。それを一国の国会議員が行政訴訟するというのは、我が国の制度を改革しようとしていることを水を向ける行為なのです。
日本の司法が構造的問題をもっおり、それを改革しようとするそのことを潰してしまう恐れもあるのです。
ニュースを聞いたときに単にその問題をとらえるのではなくマクロ的に俯瞰することも肝要です。
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