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2010年10月14日木曜日

EDGE 領土問題を考える

グローバルと叫ばれたここ数年ですが、本当にグローバルで捉えなければならないようなことはごく限られている気がします。黄砂の問題や大気汚染はそうですが、それ以外は「エッジ」で起きているような気がします。

このところこの「エッジ」ということに少し気をつけています。単に地勢学的なエッジは国境=BORDERです。それ以外にも行政区分や法律様々なところでエッジが存在するのです。

領土問題も考えてみれば「エッジ」での問題です。尖閣諸島から中国名併記を外せとどこぞの議員がグーグルに申し立てているようですが・・・・・・・・

尖閣諸島はそもそも日本の固有の領土だったのでしょうか?こんなことをいったら売国奴といわれるかもしれませんが、台湾にあれほど近く、琉球でさえ日本とは違う文化、生活を送っていた事を考えると日本固有といえるほど私は確信できません。

そもそも領土問題というのはエッジでおこる理由があるのです。エッジはいわば国というフレームを作ったがために必然的に発生したものなのです。このフレームがなければエッジなど存在しません。フレームを作る行為とは何でしょう。これは極論すれば個人の自由を束縛して「公共」という言葉によってこの私的なものを閉じ込めるものなのです。つまり、私的なことがらの束縛です。個人の自由を尊重することと公共的であることは両極に対座するものです。

尖閣は日本の領土だ、中国はけしからんというのは、私的であることを制限した公共としての意見であり、それを動かしているのは恐怖心なのです。では何の恐怖か?それは疎外感です。愛国心とはこの疎外感だと思うのです。集団と違う意見、集団と違う行動、集団からどう見られているのか、こんなことが愛国心を動かしているのです。

もっとも政治家の意見は公共なのであれはあれでいいのです。しかし、国民のそれぞれがマスコミが囃したてるために、尖閣は日本の領土だ、中国はけしからんと個々で言い始めるのはいささか問題です。

日本人を拉致している某国は公共として国民の私的なものを制限し、しかし一方で一人の人間の私的な欲求を満足させるといった国なのですから、見習ってはなりません。

そう領土問題は相当私的な問題とも取れる訳です。

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