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2012年1月23日月曜日

三丁目の夕焼けにあって今無いもの

映画「ALWAYS 三丁目の夕焼け 64」が公開された。公開に先立ちテレビで以前の映画が再放送されていた。

ご存じの通りこの映画は昭和30年代から40年代の日本の高度経済成長期に入る夜明け前の時代を描いた映画だ。

息子や娘は自分の知らない近過去はとかく知りたくもないし、知りたがらない法則の通り無視していた。

単なるノスタルジーだけでない事を考えていた。あの時代にあって、今の時代にないものとはなんだったんだろう。

ふと映画を見ながらそこに登場する茶川商店にしても、鈴木オートにしてもどの家も「開け放たれていた」そう当時の我が家も同様だった。

妻の実家も祖父がいた頃には、絶えず誰かしらがやってきて、玄関はあって無いようなものだったと聞く。

自由と言う名のもとに我々が手にしてきたのはプライバシーという閉塞の環境かもしれない。

あの頃にはプライバシーだの自由だのと言う前に食べることが先だった。

そして繋がり。

人間のDNAには共存するDNZが組み込まれているという。自分だけでなく、他人にも幸せになってほしいと言うDNAが

家が留守の時に足を怪我して隣の家に転がり込んだ記憶がある。そんなとき隣人は家族のように接してくれた。それを知った母親はお礼行き、相互関係が生じる。

我々が大切にしてきたものは何だったんだろうと考え直す。

昨日も反対側の駅のホームで肩がぶつかったと大声でどなり散らしている人がいた。しかし、誰も仲裁に入ろうとしない。怒鳴られている人はまだ若い女の子だ。女の子は今にも泣きそうにしている。

やっと駅員が駆けつけたと思ったら、警察官が来て男を連れて行った。

すべからく極端に物事が進む。

男だって親切にされた隣人から注意されれば意に介さない訳にはいかない。いや、親切にされた記憶さえ無かったのか・・・・親からたっぷりの愛情を注がれて育ったのではなかったのかもしれない。

「きちんと」「はやく」は子供を委縮させ、益々駄目にするそうだ。

でも22歳になっても机にアイスクリームの空の容器を入れっぱなしにして小さな蟻を見つけたら誰だって「きちんと」と言ってしまうのが実情・・・・・矛盾ですな・・・・・・

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