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2012年3月23日金曜日

ブータン的幸福論 唯物史観

昨日もNHKでブータンの特集をしていた。何とはなしに風呂の中で眺めていた。

暫く前に羽田からブータンへの直行便が就航したと聞き、新しく出来たブータンのアマンリゾートを予約した。

でも行かなかった。

経済的、金銭的価値でない大切なもの、結構である。反論などしない。

私の幸福論の以下公式通り、人生の中で自分に関わってくれる人達との時間こそが幸福なのだから当然の帰結だ。

幸福=√健康×(人間関係+価値共有の時間)

しかし、もう一方では私は祖母の言葉を思い返す。

新横浜のラーメン博物館に連れて行った時、私たちがノスタルジックに感じる昭和のレトロな雰囲気が嫌いだと言った。もうこりごりだと。

我々日本人も電気も水も無く、家族と近所の共同体が力を合わせて、素朴で、純粋な生活をしていた時期があったのだ。

祖母はその時代にはそれなりの良い思いでがあったのだろうが、戻りたくないと言った。




「唯物史観」を読んだ事はおありであろう。私は原初も含めて写真の2冊も読んだ。

唯物史観の賛否はあれど、あそこに書かれている通り、歴史は不可逆的に変性を繰り返し、国家、制度をその都度作り上げる。その不可逆的流れには逆らえない。

19世紀はその始まりと終わりに大きな戦争があったが概して言えば平穏な時代だった。

20世紀はそのほとんどが戦争の時代だった。それも19世紀の比ではない大量殺戮兵器が登場した。

我々は渦中にいるとき、その歴史認識を誤る。

我々はどこに向かって行くのだろうか、バックミンスターフラーの宇宙船地球号は果てしない旅路に出てしまったのか・・・・

あの当時、貧しいことが特別ではなかった。皆同じような境遇だった。だから頑張ることも耐えることも出来た。そして、頑張れば何とかなるという先人の盲想をそのまま鵜呑みにして。

ブータンは消費税率が最も高い国である。国はこの税金を福祉と教育に使う。

日本ではどうであろう。例え消費税をブータンと同じように上げたとしてももはやブータンの世界には戻れないのだ。

彼らは効率を求めない。日本は戦後のアンシャンレジームを経て教育そのものも効率を重視したものを採用した。

私が某組織に批判的なのは、こうした政策を自ら選択しながら、人間重視、ゆとり教育といった矛盾を平然としたテーブルに並べ知らん顔をしているからだ。

一度は教職を志しながら、何かひっかかるものを感じていた。そのことが喉に残った骨のように・・・・・・

今日の内田先生のブログにそんな効率と教育(教育に効率は本来なじまない)について鋭い考察があったのでご紹介する。

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http://blog.tatsuru.com/


『赤毛同盟』と愚鈍の生成について



朝日新聞の求人欄の上に日曜に出ている「仕事力」というコラムのための取材を受けた。


その中で、「適性」とか「天職」とかいう言葉がどれほど若い人たちの労働意欲を損なっているかについて語った。


今、仕事を探している若い人たちの言う「自分の適性にあった職業」というのは、装飾を削ぎ落として言えば、「自分の手持ちの資質や能力に対していちばん高い市場価値がつけられる職業」のことである。


交換比率のいちばんいい両替機会を求めているのである。


ありていに言えばそういうことである。


そういう仕事をみなさん探している。


交換比率のいちばんいい両替機会を求めてうろうろするのは、やればわかるけれど、あまり賢いことではない。


でも、消費者マインドを刷り込まれた人たちは、「限られた持ち金でどれだけ有利な取引をするか」、費用対効果にしか興味がない。


それは大学で教えているとよくわかる。


学生たちは単位や資格や学士号の「市場価値」はよく知っている。


だから、それを手に入れることを願っている。


でも、条件がある。


「最低の代価で」というのがその条件である。


消費者なんだから当然である。


最低の代価でもっとも高額の商品を手に入れたものが「賢い消費者」である。


学生たちは子どものころから「賢い消費者であれ」ということを、ほとんどそれだけを家庭でも学校でもメディアからも教え込まれてきた。


だから、大学生にとって最優先の問いは、「最低の学習努力で最高の教育商品を手に入れるためにはどうふるまえばいいか」である。


単位をとるために必要な最低点が60点で、出席日数の最低限が3分の2であるなら、「きっかり3分の2だけ授業に出て、きっかり60点の答案を書く」学生がもっともクレバーな学生だということになる。


たしかに、今の学生たちはそう信じている。


60点で合格できる教科で100点とる学生や、3分の2出ていればいい授業に皆勤する学生や124単位とれば卒業できるのに180単位もとった学生は「100円で買える商品に200円出している消費者」と同じようにナンセンスな存在なのである。


前に平尾剛さんから聴いた話だけれど、彼の指導しているクラブでの自主練習のメニューを相談しに学生が彼に「なにやっとけばいいですか?」と訊いたそうである。


「なにやっとけばいいですか?」という言葉に平尾さんはつよい違和感を覚えた。


そういう言い方はないだろう。


「なにやっとけばいいですか?」と問うた学生は「あなたがコーチとして怒り出さないミニマムはどの程度の練習ですか?」を訊いている。


この問いに答えが与えられたら、次にその学生はミニマムを達成するために最も効率的な方法(つまり最短時間、最少エネルギー消費でその課題をクリアーする方法)を探し出そうとするだろう。


論理の経済はそのようなふるまいを要請する。


だから、「なにやっとけばいいですか?」は運動能力を上げることをめざす人間が口にするはずのない問いである。


でも、そのような問いが実際に運動能力の向上を熱心にめざしているはずのスポーツのクラブにおいてさえ平然と口にされ、プレイヤーがそのような問いを口にすることの奇怪さにチームメイトさえ気づかない。


何年か前に浪速大学医学部からKCに移ってきたN田先生が浪速大学に「絶望」した理由としてこんな話をしてくれたことがある。


授業が終わったとき学生が先生のところに息せき切って近寄って「先生、質問があります」と言ってきた。


N田先生は「何だい?」とあふれるような教化的善意をもって振り返った。


「先生、さっきの、国試に出ますか?」


学生からの質問の過半が「国試に出ますか?」で占められるようになったときにN田先生は医学部教育への情熱を失ってしまったそうである。


「国試に出ますか?」は「なにやっとけばいいですか?」と同一の問いである。


学ぶべきミニマムを訊いているのである。


国試に出ないことを勉強するのは(医師になったあとにその臨床例に遭遇したときのことさえ考えなければ)まったくの無駄だからである。


ここに働いているのは「計算」ではない。


「抑圧」である。


学生たちは「最小の学習努力で必要最低限の成果を挙げる」ためにはどうすべきかという計算だけを求められている。


どのような頭の使い方や身体の使い方をすれば自分の潜在的な心身の能力は爆発的に開花し、そのパフォーマンスは最高になり、アウトカムは最大化するか、というような問いのために、この計算能力は決して利用されることがない。


ある種類の計算のためにしか知性の行使が許されないという場合、それは「計算をしている」のではなく、「計算することを強いられている」のである。


だから、私はそれを「抑圧」と呼んだのである。


最低の学習努力で、必要な教育商品を手に入れること、今の日本の学生たちはそのような「消費者的ふるまい」を強制されている。


そして、学生たちが代価として差し出すことを求められている「最低の学習努力」は、同学齢集団の学力が下がれば下がるほど少なくなる。


平たく言えば、「他の学生たちがバカになればなるほど、少ない学習努力で単位がもらえ、卒業証書が手に入る」のである(大学だって、一学年の半分を留年させるわけにはゆかないから、最初は泣く泣く「下駄を履かせ」、そのうち天を仰いで「小学生でも解けそうな問題」を定期試験に出すようになる)。


だから、消費者マインドを保持している学生にとっては、自分を含めた学生たちの集団的な学力が劣化することは「ますます安い代価で商品が手に入る」歓迎すべき状況を意味しているのである。


それが今の日本で起きていることである。


就職についても同じことが起きている。


「適職」というのは、消費者マインドをもったものにとって、「最低の努力で最高の報酬が手に入る就業機会」を意味している。


シャーロック・ホームズが解決した『赤毛同盟』というミステリアスな事件がある。


この短編でいちばん興味深いところは「燃えるような赤毛である」という何の努力も要さない生得的資質だけによって高額の報酬を約束した赤毛同盟のトリックにひっかかって、エンサイクロペディア・ブリタニカの筆写という全く無為な労働で日々を過ごしたJ・ウィルソン氏のきわだった愚鈍さである。


彼は物語の冒頭においてすでに十分愚鈍なのであるが、物語が進むにつれてその愚鈍の度を増し、シャーロック・ホームズが鮮やかに事件を解決したときも何が起きたのか全然理解していない(と思う。終幕にはもう出てこないから想像ですけど)。


この皮肉な物語からわれわれが得ることの出来る教訓の一つは、最低の努力(その極限は「先天的資質」である)でうまみのある収入を手に入れようとする人間は、その発想において本態的に愚鈍であることを宿命づけられているということである。


ウィルソン氏はこの取引があまりに市場における交換比率がよいせいで、彼の際だった先天的資質なるものにいったいどれほどの内在的な価値があるのかという、当然自分に向けて立ててよい問いを忌避してしまった。


有利な交換を求めるものは、自分が市場に差し出す手持ちの財の価値を他者が過大評価することを切望する。


当然である。


けれども、この「賢い消費者」たる交換比率原理主義者をあるピットフォールが待っている。


それは、「彼が市場に差し出す財の価値がゼロであるとき、交換比率は最大になる(だって無限なんだから)」ということである。


つねにより有利な交換比率を求めるものは、自分の手持ち資源の価値ができるだけ過大評価されることを願う。過大評価のカーブは、市場に差し出す自分の手持ち資源の価値がゼロであるときにその最高点に達する。


つまり、ひたすら有利な交換を願うものは、その論理的必然として、やがて自分の手持ちの資源の価値がゼロであることを願うようになるのである。


悪魔的なコロラリーだが、現に、日本社会はそうなっている。


学生たちは愚鈍さを競い、労働者たちは他の労働者が自分より無能でかつ薄給であることを喜ぶという倒錯のうちに落ち込んでいる。


それは彼らが怠惰であったり、不注意であったりしているからではなく、「有利な取引をするものが賢い」という市場原理のルールをあまりに深く内面化したことの帰結なのである。


というような話をする。


果たしてこんな耳障りな話がどこまで新聞紙上で許容されるかどうかわからないので、備忘のためにここに記すのである。









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