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2012年4月17日火曜日

喉元の骨・・・






糸井さんと私は直接の知り合いでも無ければお友達でもない。ただ前の会社のグループで彼が作ったコピー「おいしい生活」は今でも記憶に新しい。

彼が震災以降ずっと被災地への応援を継続している。もちろん彼に限った事ではない多くの人が善意と自らの信念に基づいて行っている。

私が言いたいのは何と言うかそういった外形のことではなく、彼の根っこにあるもの、つまり幼いころから今に続く原体験において自然とそうした行為をしているように感じたのである。

彼は私より10歳も年上である。恐らく彼が入学したころには学生運動の真っただ中であったであろう。彼の大学はH大学はそうした左翼のアジトだったと聞く。彼はそんな学生運動をどう見たのであろう。

彼は18年間前橋で暮らした。私の生まれ育ったK市と同じ赤城山の南面に位置する街だ。

彼の高校は県内でトップクラスの進学校だった。私達の頃にも「バンカラ」という気風が残っていた。下駄で登校する輩やわざと学生服の襟や袖を擦り破っていたものもいた。

当時は社会が決めたもの、親が決めたもの・・つまり大人が決めたものをカッコ悪いと思っていた。

不良でもないのに不良を気取っていた。チョウランには虎が刺繍してある学生服を着ていた友達もいた。

私はそれは着られなかったが、それでもアイビールックなんて絶対着る事はないと思っていた。

赤城山からのからっ風を顔に受け、いくら漕いでも前に進まない自転車に乗って砂まじりじりの学校に通った。

私が上京して初めて目にしたものはこの社会の仕組みが18歳の若造が考えていたようなものではなく、そんな事お構いなしに時計のようにコツコツと前に進む世界だった。

止まることも考えることもない世界・・・高度経済成長の最後の時期だった・・・

私は上京して大いなる挫折をした。庄司薫の本とはまるで違うこの社会に・・・・

そして次第に頭から18年間の原体験は消えて行ったのだ。

30歳を過ぎて故郷に帰ったことがある。私も彼と同じく故郷で両親が離婚した。

良いことも悪いこともこの街にはあった。やっと30歳を過ぎて故郷に帰ることが出来たのだ。

そこで私は根っこがここにあったことを痛感した。今まで消え去ったと思っていた原体験が形を変えてひよっこり顔を出したのである。

私はそれ以来故郷を否定しない。つまりありのままの私を顕すことにしたのだ。

そんな事を考えると彼の震災支援は彼の原点回帰なのではないかと思う。

日本は二つの繋がりで結ばれているのではないかと思う。

ひとつは東北から栃木や群馬を連ねて東京につながる道。もうひとつは九州、四国、近畿地方から東京につながる道だ。

我々は思考するとか哲学するとかする以前にこのDNAが影響して知らず知らずに自分の行動に影響しているのではないかとこの頃思う。

私の住んでいる横浜の山の手より鐘が淵や曳舟の工場と住宅が混在している街に行くと妙に心が休まる・・・これも原点へ近づいた知るしかそれとも単なる懐古趣味なのか・・分からないが・・・



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