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2012年9月4日火曜日

大きな椎の木と椎の実

私が親業を始めるにあたって先輩から注意された。親は決して前からでなく、子供に後ろ姿で知らせるものだ。そして、植物の水やりと同じく、水を与え過ぎれば根ぐされしてしまうし、逆さまに与えなければ枯れてしまう。

そう思って、出来る限りの事を経験させてきたつもりだったし、決して、親が全てを決めてきたわけではない。

娘が結婚すると聞いて驚いたが、半面、安心した。私達が一生、子供達を見守る事は出来ないのだから。

子供達のやる事は全て幼く見えてしまう。仕方ない、私達の半分くらいしか生きていないのだからら無理もない。私達だってあの頃は全く社会の事など見えなかった。

子供達の意思を尊重してあげようと思う反面、何故こうしないのかともどかしなってしまう。

結局、親が思っているように子供はならないものなのだ。私の仕事柄、親の会社を継ぐ二代目が多い。多くは目的を失い、会社も従業員も不孝になるケースが目立つ。

もちろん全ての二代目が悪い訳ではない。二代目だって、親の基礎の上に自分なりの個性を付加して輝いている人も多いのだから。事実、私の周りにはそうした努力を重ねた二代目が存在する。

しかし、我が子たちにとって親の後を継ぐというのは足枷以外の何物でもないし、もっと輝いて欲しいと思うから、自力で社会に出る事を勧めた。娘の就労には何一つ口出しも、手伝いもしなかった。彼女は自分で全てを乗りきっていった。

相手のご両親が結婚指輪と婚約指輪を買ってくれたそうだ。ポイントで買ってくれたと言う親の優しさ痛み入ります。

大きな椎の木は枝を広く広げ、自分の子孫である椎の実を出来る限り遠くに落とすのだそうだ。

閑話休題

あるYという作家(元大学教授であるが読み物の方が俄然面白いので)がブログで自分の持ち物について、自分は無頓着だと言っていた。まあもそういう人もいるだろう。しかしね、BMWのディラーの前を通りかかり偶然カタログで探した車を無頓着で買ったと言うのは無理があるだろう。
物に対する「意味性」とはその人の主観的概念でしょう。逆に「意味性」を持たなければ所有しないものとそうでないものが存在し、そこには必然的に「執着」が生まれるのですよ。車は走ればいいと言ったってそこに走れば良いと言う「意味性」が存在するのだから・・・・フランス文学者なのだから当然ご存じのはず(ソシュールのシニファン、シニェ)なのにそうするのは????
まあ、「俺は物になんて無頓着だぜ」という読者に多々対するメタファーと受け止められますな・・・・私は執着もするし、諦めもする、聖人君主のように物質文化を超越し、精神世界にのみ生きるなんて決して言いませんから・・・

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