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2012年11月1日木曜日

1981年のゴーストライダー Ⅲ



洋一は市ヶ谷の駅を降りて外堀通りに面した黒い建物を見上げていた。

学園祭の最終日に竹内マリアの曲がどこからともなく流れて来た時に、洋一はこれで本当に大学生活が終わるのだなぁと所在なくぼんやり考えていた。

大学は社会に出る前のモラトリアムだと言う人かいる。洋一は確かにそうだったが、同じ高校を出て医学系に進んだ友人には学生生活は勉強漬けの日々であったし、モラトリアムなどという言葉を使うことは出来なかった。

洋一は濃紺のスーツに白いカッターシャツ、ブルーのストライプのネクタイをしていた。唯一、洋一が拘ったのが靴である。普通なら黒のプレートゥが一般的であるが、洋一は少し紫がかった使い古した、いやいや、いっちょうらいのオールデンを履いていた。

洋一は今まで商社に的を絞り面接を受けてきたが、とある商社の面接でその考えが変わった。

その商社は集合するなり、学校別に部屋を区切り、面接を行っていた。その程度の事は差こそあれどこでも見受けられたが、ここの分類はとても変わっていた。

第一室東京大学様、第二室その他の国立大学様、第三室私立大学理系様、第四室私立大学文系様・・・・ここまで分かりやすい会社は初めてだった。

洋一は卒業して友人と会社を興そうと思っていた。洋一が企画したツアーやイベントはことごとく成功し、それまで一生懸命バイトをしても中々たまらなかったお金が一瞬にして稼ぐことが出来た。

洋一が就職活動をすることになったきっかけは友人の死である。仲の良かったその友人はM大学の商学部に在籍し、洋一よりひとつ下だった。洋一が初めて買ったサーフボードもその友人に譲り、洋一は念願のアイパのツインフィンを今は手に入れていた。

その友人の死は突然やってきた。飛行機事故だった。彼の葬儀はとても冷たい雨の中で行われた。

その時の彼の両親の悲痛な顔を洋一は忘れなかった。年老いた両親を残して先に逝ってしまったことは何にも代えがたい苦しみであり、両親は息子が卒業して会社には行って初めて給料をもらってくるのが夢だったと泣きながら話していたことが、洋一の頭の中でこだましていた。

もうひとつ洋一を就職に向かわせたのは先生の一言だった。

独立するのは良いと思うが、一度、社会に出てからでも遅くないんじゃないだろうか、今立ってる場所とはまた違う場所で見まわした時に新しい発見があるし、それまで培った経験や人脈は想像以上に大きいというものだった。

確かに洋一もその理屈には納得していた。

洋一は面接を受けていた。面接の内容はごく一般的なもので、洋一が期待していた音楽の話はひとつもなかった。面接官の服装も音楽業界の人とは思えないような保守的なもので洋一の靴だけが浮いていた。

その会社は洋一の好きなビートルズなど洋楽の分野では日本を代表するものであったが、建物を出る頃にはこの会社の20年後が心配になった。もちろん合否などどうでもよくなっていた。

洋一は優子と待ち合わせはている赤坂見付駅まで少し遠いと思ったが、外堀通りの建物のガラスに西陽が映り込み秋の気配のました街並みを見ながらもう歩きはじめていた。


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