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洋一は変なものを集める趣味があった。子供のころはどこかに出掛けると必ずバッチを買った。何処かに行った記憶としてバッチを買うのではなく、とにかく沢山の色んな種類のバッチが欲しかったのだ。
洋一は大きなブリキ缶の中にそれを入れていた。時折そのブリキ缶からバッチを取り出し並べてみる。形の違いによって並べたり、関東なのか関西なのかまたはどこの県なのかによって並べてみる。どうでもいいような基準をその時の気分によって自分で設けて並べてみるのだ。
その中にどの基準にも当てはまらないものがあった。洋一が母親と行った新潟県の岩原というスキー場で居合わせたテーブルの前の男性が付けていたバッチだ。洋一はカーキ色のリブ編みのスゥエーターの胸に付けられた綺麗なバッチが日本の物でない事を知っていた。バッチは雪をかぶった白い大きな三角の山とスイスの赤い国旗が描かれていた。洋一の目がそのバッチに釘づけになっていたのは誰もが分かった。男性は気に入っているのならとバッチを洋一に苦笑いしながら手渡した。それ以来そのバッチは洋一のブリキ缶に入っている。
洋一はそれ以外にも切手を集めていた。かなりの切手を集めたが、もっとも希少切手のコレクターというわけではなく、郵便局で売り出される記念切手を買うのだ。人気のある記念切手は売り切れになることもあるから気を抜けない。洋一が集めていたものの中で一番のお気に入りは日本の国宝と国立公園のシリーズだった。洋一は切手に描かれていた仏像は、まだ行ったことも無い京都のお寺にある弥勒菩薩でそれが国宝である事、そしてその表情をアルカイックスマイルということを知っていた。
洋一は大人になってバッチの事も切手の事も忘れていた。もっとも切手は親戚の子供にせがまれて貸したつもりだったが今はどこにも存在しない。バッチはかろうじてブリキ缶の中に眠っているが、もう何年もその蓋は閉じられたままだった。
洋一の手の中に一枚のコースターが握られていた。洋一は丸い形のコースターの端を指で弾きコマのように回した。コースターは力なく何回か回りながら印字のある面を上にしてテーブルに倒れた。コースターには浅草の日本一古いバーの名前が書かれていた。数ヶ月前に優子と出掛けた時にもらってきたものだ。名物のカクテル頼んだが甘くて飲めなかった。テーブルの上には十数枚のコースターが重ねられている。全てが国内のホテルやバーの物だ。洋一はいつかレイモンドチャンドラーの小説「長いお別れ」に出てくるギムレットをアメリカのバーで飲んでみたいと思っていた。もちろんコースターは持ち帰るつもりで。
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