テレビのニュースで苗場スキー場の来場者が昨年より増えているらしい。
スキー場が子供のリフト料金を無料にしたりとハード面の工夫しているらしいが、一番の理由は80年代のスキーブームに育った30代前後の夫婦がもう一度スキーにチャレンジしたいという気持ちが大きいと思う。
雑誌ポパイでもスキーブーム復活と題してこの2月号を刊行している。
もっともあの長いリフト待ちに戻るのは嫌たけど、外国語しか聞こえないスキー場はやはり寂しいからスキー人口の増大は良いかもしれない。
私が幼稚園でスキーを始めたときは竹のストックに、木のスキーでビンディングはかかとに引っ掛けてパタンと前に倒すものでした。リフトでなくロープトウといもので手がパンパンになった。
小学校に入ると皮にコーティングした靴に替わり、竹のストックもジェラルミンに変わった。
その後、グライファイバーのスキー板が登場した。クナイスルという外国のメーカーのそれは高嶺の花だった。確かホワイトスターとか言っていた。これは買ってもらえなかった。
スキー場まで電車で2時間くらいということもあって、始めのうちは電車で通った。
中学の頃は友人と越後中里や石打など駅に近いスキー場に出掛けていた。
スキーの映画も会も市の文化会館という如何にもその手のフィルムを上映するのに適した場所で毎月開催されていた。スポンサーは市内のスポーツ店だった。
当然、上映会が終わると景品の抽選会があって、子供心にいつか当たらないかとドキドキした。
そのころの上級者と呼ばれる人は無理をしてもセーターで滑ったものだ。セーターで滑ることは転ばないという暗黙の了解でもあり、ゲレンデでは注目された。でも本当は寒かったのでセーターの中には風を通さない薄手のナイロンのシャツを着ていた。
パンツは今の様なダボダボではない。ニーパッドが入っていてピッタリとした伸縮性のあるものだった。
あの頃は難しいコブを如何に旨く滑れるか皆熱中した。丸池のAバーン、志賀のジャイアント、八方の黒菱、どこもそのコブの大きさは威容を誇った。今はスノーボーダーのためにほとんどのコブが均されている。
私がスキーをしていて遭難した人を2回見た。1回目は蔵王だった。同じ宿に宿泊していたグループが遭難した。翌日、大規模な捜索が開始され全員助かった。
2回目は天神平、春スキーだったがマチガ沢にまだ雪崩が起こる前で、危険なので封鎖されていた。私達とすれ違った3人組はロープをくぐって滑り降りて行った。途中で大規模な雪崩に合い、全員死亡したとニュースで知ったのは翌日だった。
このところ密かなマイブームなのだが、中々行けない。それでも昨年は軽井沢、一昨年は志賀、その前の年はトマムに行っている。今年も何とか行きたいと画策しているのだが、身重の娘は出産で戻ってくるし、息子はLAに留学と何かと忙しなくいく機会がとんと来ない。
密かなマイブームとして胸の奥にその燈を消さないよう灯し続けるようにしよう・・・スキーボーイなのだから・・・
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