この季節になるとささやかな楽しみが増える。もっとも花粉症という難苦を替わりに背負うはめになるのだがそれでもマスクをして戸外に出て、小鳥のえさ箱にそっとみかんやパンの屑を置いてくる。
テレビでも紹介されていたが私と同じように小鳥が来るのを楽しみにしている人も多いようだ。
今の時期はメジロ、ヒヨドリ、シジュウカラだ。シシュウカラはかんきつ類より稗や粟を好む。みかんはメジロとヒヨドリの人気メニューで取り合いになる。取り合いと言っても大きさの違う2羽だからヒヨドリが居ない隙にメジロが食べるので、ヒヨドリの死角になるところにもみかんを置く。メジロは必ず2羽で現れる。低い茂みに身を隠し、そっとえさ場に近づいてくる。そこにいくとヒヨドリはえさ場から離れた止まり木でこちらのようすを窺っている。ヒヨドリも一羽ずつ性格が違うようだ。メジロがいても我関せずと食べ続ける鳥もいれば、一目散にメジロを追い払ってから食べるものもいる。そんなやつが別のヒヨドリから追い払われたりすると、これはまた面白い寸劇を見ているようでもある。
野鳥だから警戒心も強く、普通は人影が近づけば逃げるのだが、ある年の鳥は違った。そう2年前の震災の直後だった。私が戸外に出ても逃げないのだ。手から餌を取ることはしないが、宙に放り投げるとそれを直接キャッチして食べたのだ。それ以来、その年はずっと空中キャッチの連続だった。あれは震災で元気をなくした人間への哀悼だったのかもしれない。
私は幼い頃文鳥を飼っていた。最初の一羽はふつうの色をした文鳥だったが、2羽目は真っ白な文鳥だった。ピーコと名付けた。ごくありふれた名前のその鳥は頭が良かった。人の声を聴き分けられた。私と母が同時に呼ぶと必ず私のところにきた。私は誇らしかった記憶がある。文鳥は繁縷が好きだった。幸い畑でなく河原のそれは農薬の心配もなく、それでも綺麗に洗って文鳥に与えていた。手の中で眠るその鳥は暖かく、幼い子供の友達だった。母が余計な事をした。毛づくろいをする鳥を何か虫が付いて痒がっているのだろうとDDTをかけた翌日冷たくなっていた。
あれから四半世紀今でも動物が好きだ。でも籠の鳥はもう飼わない。可哀想だから。こうして自由にきままに遊びに来る鳥たちと楽しんでいる。
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