小泉構造改革とは何だったのか
今ほど民意が失われた時代はなかったのではないか。当時の小泉首相が郵政民営化を訴え国民的支持を集めたのは周知のとおりであるが、その後の自民党はその謳い文句さえぐずぐずだらだらとひっくり返して郵政民営化を白紙にしてしまった。子供の日直のように目まぐるしく首相は変わり、長期的政策は何一つ行われてこなかった。その結果、国民は自民党に嫌気がさした。そこで民主党を支持した。しかし、その民主党はそもそも寄せ集めの党であるから、政策の違い、いやいや政策ならまだしも己たちの権益の確保のため同党内で相克した。その後の国民は安部首相を支持したのではない。自民党を支持したのではない。他に投票できなかったのだ。ところがどうだろう、ブレーンが変わった途端に日経平均が上昇し、円安が加速した。アベノミクスの効果だろうか?いやいやそんな事はない。結果論。レーガノミクスの時もそうだった。その前から伏線はあったのだ。新自由主義は小泉首相同様、結果批判の対象にされている。フリードマンをはじめとするこの手の経済政策の騎手はボロボロである。経済学の分野でも公共経済学や厚生経済学という言葉がよく使われる。しかし私は反グローバル主義を掲げる経済学者を信用しない。日曜日の朝番組に出演しているK氏や彼と同学のJ氏など声高にこの事を訴えている。彼らは息子の学校の先輩ではあるが何故か静的思考だ。どうみても日本がスェーデンのようになれるわけがない。レーガノミクスの時に言われ続けてきた大企業が利潤を生めば、そこで働く社員の消費も拡大し効果は循環的に及ぶとしたトリクルダウン理論は後で嘘だった事が分かった。そもそも、そんなに調子の良い事があるわけがない。はじめからレトリックだったのだ。
グローバル主義は好き嫌い関係なく、すでに始まっている。私達がユビキタスの社会を目指したときからはじまっているのだ。宇宙の膨張と同様に附加逆的でその進行を止めることはできない。水が高いところから低いところに流れるごとく、富のその流れはきまっている。大きなイノベーションの渦中にいるとその事が分からない。今まさにその流れの中にいるのではないか。19世紀のパックス・ブリタニカから20世紀のパックス・アメリカーナの国家の時代は21世紀の今終焉しようとしている。民族、国家、政治、宗教我々には多くの壁があった。この壁によって安全や利便性を享受してきたし、一方で様々な活動を阻害してきた。その壁が今崩れようとしている。鈴木健氏によればその後の社会はなめらかな秩序を特徴とするらしい。前述した国家、政治、軍隊などは敵となる。鈴木健氏はサルガッソーなる集団を率いる。サルガッソーとは魔の海域バミューダトライアングルのこと。サルガッソーというホンダワラの一種が海に漂って行く手を阻む。この海域は表面にはプランクトンがおらず海底に集積していと言う。透明度は60メートルを超える。
話が脱線した。
小泉構造改革が失敗だったのは唯一途中で止めたことだという人とがいる。私も同意だ。
この改革により格差が拡大し、弱者が輩出されるのは制度的問題だという。そうだろうか、制度と言うより社会そのものをひとつの細胞に例えるならアポトーシス(apoptoisis)が始まりかけている。自身による内部崩壊の一歩手前まできているのではないか。それを制度的問題に置き換えるのは経済学者の浅はかさだ。
数年前、三浦展氏が「下流社会」を上梓した。下流社会は流行語にもなった。
この下流化の現象は今も進んでいるのだろうか。答えはイエスでもありノーでもある。情報というものが簡単に手に入れられるようになった。しかしこの事はテレビのニュース漫然として眺めているような訳にはいかない。自分で関係性を成立させ、積極的に情報を掴んでいかなければならないからだ。その意味においてそうしているものとそうでないものの情報格差がそのまま経済格差に繋がる。情報貧乏が存在するのだ。
もちろんグローバル化を止める唯一の方法がある。それは鎖国だ。お隣の国のように国際社会は関係ないとばかり、一切の門戸を閉ざしてしまえば良い。でもそんなことしたら国内で暴動がおこることは必至である。人間は一度便利さを手に入れたらそれを簡単には手放さないのだ。
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