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2013年6月7日金曜日

犬を飼うと言う事

犬を飼うということ

犬は死ぬのが嫌だから飼わないと言う人もいる。それも分かる。死んだときの悲しさはたいへんで辛くて堪らないから。
ある芸能人は、犬は絶対家族ではないと言いきる。その理由は家族だったら死んだからといって新しい家族を迎い入れることはしないからだと。
もっともらしい理由だがそうだろうか。
私には大学生の時に飼っていた犬を手放さなければならなかった苦い過去がある。雑種でくる病のため足がo脚に曲がっていて、見栄えの良い子ではなかったが私には天使のようだった。飼い主でさえ食べている時に手を出すとカブリと噛みつきそうな癖のある子だった。それでも可愛かった。母が病気で入院する事になり、私は授業を放り出して面倒を見る事は出来ず、そして人手に渡った。それ以来、絶対に犬は飼わないと思っていた。
オースラリアに住む先輩の家に遊びに行った。ゴールドコーストにあるその家には大きなゴールデンリトリバーがいた。大人しく躾をよくされたその犬は家族の人気者だった。
私の娘は犬を飼ったことがなかったので、少しでもその犬が近づこうとするとソファの背もたれの上を逃げ回っていた。
娘は犬を知らない。いや、人間と言う動物しかしらないのだ。だから、これ程までに犬を拒絶するとしたら、このままで良いのだろうか。子供の成長にとって犬と暮らす事は大きな意味を持つのではないだろうか。帰国して暫くそんな事を考えていた。
そしてもう二度と手放さないという覚悟と信念を確認して、我が家に初めての犬を迎い入れたのである。
メスにしては大型のゴールデンリトリバーだったが、利口で人間の言う事は良く理解した。小さな頃に他の犬に慣らしていなかったので犬嫌いの傾向あったがトラブルを起こすような事はなかった。娘と息子はこの犬に育てられたようなものだ。どこへ行くのも一緒だった。そんな目に入れても痛くないような可愛いジーニーは7歳で急死した。一年ほど前からラットテールが目立ち卵巣膿腫が疑われ摘出をお願いしていたのだが、その獣医は中々とりあってくれなかった。やっと手術が決まった矢先、ゼエゼエと荒い息を立てながら寝ている私のところに近寄ってきて息絶えた。何故、助けてあげられなかったのだろうと暫く自責の念が消えなかった。獣医師の裁量、知識も医学のそれに比べて大きな違いがある事も分かった。他の犬を見れば涙して、暫くはみんなの散歩している場所には近づけなかった。悲しみを完全に消す事は出来ない、しかし、時間のみがその悲しみを薄めてくれる。そして一匹のブルドッグが私達のそばから離れず、心配そうに顔を舐めてくれた。
 結局、犬を失った悲しみは犬しか癒す事は出来ない。そして、今度は男の子のゴールデンリトリバーを迎い入れる事にした。よく、2頭目を飼うと最初の犬と比較してしまうと言う人がいるが、そんな事はない。一匹一匹性格も違う。そう兄弟のそれと同じように個性があるし、単純に比較など出来ない。そしてさらにもう一匹メスのレオンベルガーを迎い入れた。考えてみれば家族だって離れて行く。一緒に暮らせるのはほんのわずかな時期だけだ。犬だって変わらない。ただ一生が短いから、子供のように思っていても私達の方が先に年をとる。だから死んだときの悲しみは我が子を失ったような気になるのかもしれない。
そんな2匹も13歳と10歳である。先代の倍近く一緒にいる。最近では足腰も悪く、排尿の障害も出始め、ボケも入っているようだが、足を引きずりながら元気に食事を催促する。
最初の命題に戻る。犬は家族だろうか、家族ではないのだろうか。私にとって家族は必ずしも血縁とは限らない。縁あって一緒になった人や動物も全てひっくるめて家族だと思う。
遠くの親戚で一度もあった事の無いような人より、そうした家族の方に愛着が強い。
愛情を持ってその犬の犬生を寄り添ってまっとうさせてあげる事が出来れば、犬も人間も幸せだと思う。だってその人以上に可愛がってくれるところはないのだから。




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