カリテ・プリとユトリロ
初めてパリを訪れた時、モンマルトルの丘のふもとにある小さなホテルに滞在した。石段の下でタクシーを降ろされ、大きなスーツケースを引きずりながらそのホテルの玄関に着いた時には辺りは真っ暗だった。
翌朝、辺りはまだ薄暗いのに小さな子供が親と一緒に石段を上っている。時計を見ると朝の九時近くになっていた。東京よりずっと緯度の高いパリでは11月の中ごろではまた陽が昇らない。
登校の子供達を窓から見るとでもなく眺めながら、疲れた胃に茹で卵を無理やり放り込むが、思ったように喉から下りない。仕方なく、水で流し込むが口の中が玉子の黄味で一杯になりなんともやるせない。
モンマルトルを散策した。ユトリロが絵描いた街がそのまま残されていた。ラパンアジルもサクレクール寺院も昔のままだ。街角の落書き一つとってもパリのものだった。
ホテルの前の小さな公園のベンチに腰を掛けていると、石段の下の方から2メートルは優に超える黒人がこちらの方に近づいてくる。私は気構えるが、相手は好相し、手を伸ばしてくる。相手は早口のフランス語で話しかけてきたが、こちらが一向に理解を示さないのを知るや、片言の英語で「ホワット・ユー・カム・フラム」と言う。私が「ジャパン」と答えると、相手は「アイ・カム・フロム・セネガル」という。その男が差し出した手はまるで野球のグローブのような大きさでゴツゴツしていた。
その男は「アイ ワーク ゼアー」と石段の下の店を指差した。私にどこで働いているのかしつこく聞く。私が旅行者だと言っても一向に信じてくれない。しまいには夜、私の働いている店に来いという。私が行ければと答えると、「マスト」と返して来た。
夜になってその店に出掛けた。昼間の彼は厨房の奥で仕事をしていた。皿洗いなどの雑用らしいが、私達を見るや近づいてきて、同時にウェイターに何やら話しこんだ。
私達は席に着き、この季節のお薦め料理を頼んだ。暫くして良く冷えたサンセールと共に運ばれてきた、それはバケツ一杯はあろうかという量のムール貝だった。
必死になってワインと共に凄い量のムール貝を平らげた。会計を済ませ、店を出ようとすると厨房の奥の彼が笑ってウィンクしてくれた。
ビストロのフランス料理を表す言葉にカリテとプロというものがある。文字通りカリテは質、プリは値段のことだ。この二つが調和されていなければならない。
彼の親切心は身に滲みたが、胃袋の小さい東洋人にとって味より、値段よりあの量で圧倒され、あとは分からなくなった。
そろそろムール貝の季節だ。あくまでカリテ・プリのものを・・・
出店 モンマルトル 店名不明
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