ブランドの憂鬱
今、日経新聞の朝刊にコトラーがコラムを飾っている。コトラーは私達のよく知るマーケティングの先駆者である。そのコトラーを持ち出すまでもなくブランドというのは厄介なものである。認知されるにも時間が掛かるし、一度認知されるとこれまた勝手な変更が出来ない代物なのだ。
某牛丼チェーンの社長が今までで一番高いメニューを作ったとニュースで自慢そうに話していた。つい最近、大手ハンバーガーチェーンが同じような高価格戦略で大きく売上を落としたと発表したばかりなのに、こうした人には多くのブレーンがついているだろうに何故同じようなことをするのか不思議である。
私のスタッフと関係ある某ラーメン店がフードコートに出店した。出す前から苦戦を予想していたが、案の定のようである。そもそもフードコートにやって来る客はどうしてもそのラーメンを食べたいから来ているという欲求の強い客ではない。お腹も空いたので「何か、これくらいの金額で」と探しているのだ。隣のさぬきうどんの店が500円、その隣の洋食店が600円なら、750円のラーメンは相手にならない。たまに気にしない客もいるだろうがあくまで少数派である。
大手はすぐ苦戦する数字を見て内部構造の問題に置き換えそれを打開するために高価格戦略を打ち出す。しかし土台無理な話しだ。こうしたチェーン店は己の出所をもう一度考えてみた方がいい。一般の飲食店には出来ないような大量仕入れ、大量調理によって原価を下げて安く売っても儲けの出る仕組みを作り、他との差別化を図ったのだから。
都内にもお茶漬けで有名な食品メーカーのファミレスがあった。何度もメニュー変更しても上手く行かなかった。これも同様、私達の頭のなかにブランドイメージが出来上がっているからだ。いくらメニューに本物の松茸を使ったお吸い物と謳っても誰もあの袋に入ったお吸い物しかイメージ出来ない。
今やなくなってしまったが鎌倉の駅前の古い商店街に老舗の鰻屋さんが店を出していた。
私はその鰻を土産に買うことが多かった。あるときその鰻屋でない由比ヶ浜通りの老舗の鰻屋で鰻を買った。もちろんこちらのほうが千円も高い。ところがどうだろうその鰻を食べた息子は駅前の鰻で十分というのだ。ならば今度はとその由比ヶ浜通りの老舗の鰻屋に息子を連れていき食べさせた。すると息子は、これはこの鰻の価値がある。これは家で食べる鰻とは全く別物と物申すのだ。なるほど家で食べる鰻は駅前のそれで十分であり、店で食べるなら由比ヶ浜通りの老舗の鰻屋を選ぶということか。
これはまさにブランド化である。消費者の側が経験により選別しているのだ。ブランドとは一様な条件で評価されるのではない。場所、時間、季節、体調その他もろもろの諸物を考慮して初めてブランド化されるわけである。
マーケティング本の中に究極のロイヤルティはそのブランド(商品)を家族に勧められるかどうかだという事が掲載されていた。なるほど自らを顧みると・・・そういうことにしておこうと密かに思うのだ・・
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