味の多面体 八十八の鰻
表題のような誰かの本を読んだことがある。まあその話は余談にして、鰻について以前つれづれと書きしるした。その時、横浜の老舗「八十八」の復興が待たれるとしていたのだが、この春に八十八が二店舗一気呵成にこの復興を果たしたのである。
実はここには偶然の偶然が関係している。私が「八十八」を知ったのはつい最近山口瞳著「行きつけの店」という本の中である。この本は鎌倉の古本屋で見つけた。簟戸に戻り頁をめくると最後に筆で花押のような元気なサインがあった。そのサインが目的で購入した訳ではなかったし、本は至極まっとうな価格であったのでなんとなく得をしたような気分だったことに気を良くしてその事を友人に話すと、何と友人は山口氏の水彩画を持っているという。友人は大手のカード会社に長らく在籍していて、氏はカード会社で発行する紙面にコラムを寄せていたようである。そんな縁でその会社のロビーには山口氏の関連する書や水彩画などが飾られていたとのことである。ところが組織というのは突然消えてしまったり、生まれたりする。そんな憂き目で氏の絵は散逸する寸前のところで友人に助けだされたという顛末だった。
そんなことをブログに書いていたら、どこでどうしたのか八十八の関係者の目に止まったようである。私のところに店の復興を祈願する期間限定のイベントのお誘いが届いた。昨年の春の話だ。場所はゴールデンウィークでごったがえす横浜球場である。もちろんノコノコ出かけ「もうこれ以上は無理というギリギリの辛口の極上鰻」を食したのである。
鰻は関東風が一番だと思っていた。その考え自体は変わらないのだが、ある発泡酒のイベントで京都出身の方とお話する機会を得た。そのイベントでも主催者側の奨めるそれより、自らの舌と好みを公言して憚らないあたり並の方ではないと思っていたが、案の定、京都でこだわりの豆腐を作っておられる経営者であった。関西はもとより関東の大手スーパーでもその豆腐は販売されているし、組合の理事も務められているようであるから食の専門家エキシスパートであった。その方と鰻の話をした時、やはり、鰻は蒸さないほうが美味しいと言っていた。その時はそれまでの食習慣や文化の違いかと思ったが、よく考えてみると、私はほんとうに美味しい蒸さない鰻をたべたことがないのではないかと思うようになったのである。ロースよりヒレとつい最近まで思っていた、あの35年の不覚と同様だ。逆にあの方もほんとうに美味しい蒸した鰻を食べたことがないのかもしれない。文化の不通とはしばしばそういう時に起こるものだからである。だから私は美味しいと聞けば蒸そうが蒸さすともまず行って食べてみることにしたのだ。
昨日、八十八のうなぎを食べて、あらっと思った。頭のなかで配線が繋がったような気分だった。八十八の鰻はザラメを入れない。醤油と味醂だけである。だからタレは相当に辛い。辛い鰻が駄目という人には無理だろう。ただし、塩っぱいということはないからご安心あれ。食べながら過去にたべた鰻の味を思い出していた。野田岩、川千家、宮川、菊川、櫻屋、つるや、島むらなどなど、とりあえず舌の記憶に新しい川千家、つるやと八十八を頭のなかで比べてみた。タレの辛さは八十八>つるや>川千家の順である。おそらく。そして蒸し加減、つまり柔らかさは川千家>つるや>八十八の順番になる。見事なまでにタレの辛さに反比例している。
私が美味しいと思っているこの三軒はタレと鰻の蒸し加減を自らの経験に寄って調和させていたのである。私は唸った。美味しい蒸し鰻を食べたことがないと言う人はこの調和が取れていない鰻を食べたのではなかろうか。柔らかく身が崩れそうな鰻に辛いタレではタレを食べているようだし、蒸しの甘い鰻に薄いタレでは負けてしまう。経験によってのみ知識は集約し価値を生み出すというが鰻とてあながち間違いではなさそうである。
そう、料理は多面体なのだと一人悦に入る私である。
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