あの日私はソファに寝ていた。一週間前に痛めた背中の肉離れが治らず自宅にいたからだ。妻は京都に大学の研究の打ち合わせで出掛けている息子を除いた娘と私と三人の夕餉の支度をするために隣町のスーパーに買い物に出掛けていた。
窓の外にはまだ風は冷たいものの春光と呼ぶに相応しい太陽の光が注がれていた。
揺れは突然起こった。私の家には六メートル近い高さの本棚が壁一面に備え付けられている。大きく揺れる中、咄嗟にこの本で押しつぶされると感じた。幸い老犬の一匹は大きな頑丈な丸テーブルの下で眠っていた。ところがもう一匹は何か不安を感じたらしく私のそばに来て顔を見ていた。もはやこれまでと思いその犬を抱き寄せたが、揺れは数回続いたものの、一番大きな揺れ以上にはならなかった。それでもキッチンのカウンター上に吊り下げられた照明がアメリカンクラッカーのように揺れ続けていた。
揺れが落ち着いてからテレビを付けてみようとしたが停電のためつけることは出来ず、電話も不通だった。
備え付けの本棚だったことが幸いして本は一冊も落ちてこなかった。私は家の周りの様子を見たくても動けず、妻の帰りを待った。妻は丁度レジで精算を済ませようとした時に地震が来たと言っていた。結局、パニックになった見ず知らずの若い女性を介抱して何も持たず帰ってきた。娘が帰ってきたのは暗くなってからの事だった。
ラジオから地震の規模や津波のことが伝えられた。電気が回復してテレビからその様子を見た時には末恐ろしさのあまり言葉を失った。9.11のときまるで映画のワンシーンかと思ったのとは違う、自然の脅威のあまり言葉を失ったのだ。
大叔母は死んでしまったが、その子供たちが石巻で旅館や結婚式場をやっていた。大叔母は祖母や母、叔父が満州から引き揚げてきた時にとても親切にしてくれたようだ。祖母と大叔母は仲が良かった。現役を退いてからは祖母と歌舞伎を見るためにちょくちょく上京していた。そんな折、渋谷に勤めていた私のところに顔を出した。大叔母と祖母と私でお昼に稲ぎくの天ぷら定食を食べた。それが大叔母との最後だった。
大叔母の子供たちの家や店は海沿いにあった。一度、母と叔父と私で大叔母の周回忌に行ったことがある。磯の匂いと海風の湿気を感じる風光明媚な場所だったことを覚えている。
それがあの津波で観るも無残な姿になっていた。私は暫く誰にも石巻の事を聞く気にもならなかった。義父が宮古の出身で同じような気持ちだったという。
原発の事が報じられたのも同時だった。ところがいざ問題が詮らかになっていくと色々な事を言う輩が現れる。私が当時も今も最も腹ただしいと思ったのは、この国はもうすぐ人が住めなくなる、だから自分の子供たちは海外に避難させたという専門家と称する人種たちである。この人達は今何をしているのだろう。逃げようにも逃げ出せない多くの国民はじっと我慢して生きてきた。その事を思うと必要以上に国民に不安を煽り、風説を流した罪は重い。
災害から一年以上が過ぎようとしていた時、尊敬する法律家から3冊の本を推薦された。その中でも最も心に残ったのが「3.11後の建築と社会デザイン」という平凡新書だった。奇遇にもこの本は会社の同期である三浦氏が執筆しており、私も読了したばかりだった。
その後の政府や自治体が何もしなかったとは言わない。ただ、その本が示す通りのことが起こっているので私にはやはりこの国の指導者があまりにお粗末だと言う他にない。高齢化や少子化という災害とは別の潮流が当時より流れていることを無視した復興計画。公共投資が先行し、被災者の住宅復興に手が回らない日本の建築業の有り様。復興予算だけ取り敢えず貰っておこうとするビジョンのない自治体、そして右側に舵を戻し原発の存続を前提にした国民を無視した政府、何もかもこの国の現状だ。
それでも被災者も生きている。これが唯一この国が誇れるものなのではないか。あの日不幸にも亡くなった全ての尊い命に向かって黙祷するばかりだ。
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