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2014年4月3日木曜日

ものづくりの幻想

日本はものづくり大国だと勝手に自らを褒め称えて胡座をかいていたら、中国や韓国にさっさと追いぬかれ自らを存亡の瀬戸際まで追い込んだ日本の業界の重鎮たちは今何を考えているのだろう。

私はもともと工業製品にまでその裾野を広げてものづくりの思想を広めるべきではないと思っている。一部の伝統工芸品や技能を除いてものづくりの優秀性を叫ぶのは痴がましいと思っているからだ。

日本の大手家電メーカーはアメリカやドイツの優秀な製品のモノマネをして、安い商品として売り出したから売れた。日本だってほんの数十年前まで中国や韓国のように先進国の工業製品を模倣していた。それが本家本元のようにして他国の製品の悪口を言うのはみっともない。自分たちがやってきたのに中国や韓国を悪者扱いするのはとんだ了見違いである。

人間も同様である。自らが先生だと思ってしまった人間には成長はない。いつまで他人の良い点を吸収する永遠の生徒しか生き残れないからだ。
日本のメーカーが全て先生として優等生を気取っている訳ではない。自らの社名を黒塗し、技術だけ進歩成長させ、知らぬ間に世界のシェアナンバーワンになっているメーカーも有る。そうしたメーカーの特徴は決して背伸びせず、自らを虚飾で上塗りせず、身の丈にあった経営をしている。そう、人間と同じなのだ。


※台湾の自転車メーカージャイアントの商品を観て






2014年4月2日水曜日

アスパラ

私はアスパラほど明るい野菜を知らない。レタスにしてもキャベツにしてもこのアスパラの明るさの前ではたじろいでしまう。それほどアスパラには明るさがある。春に採れる野菜は多いがアスパラほどそのパワーを蓄えた野菜を知らない。ネーミングもいい。蕗の薹や菜花では寒い日本の冬を耐え忍び、やっと芽吹いた春を感じさせるが、アスパラはそんな苦労とは無縁に突然春を運んでくる。そして唐突に春になる。

昔は八百屋にはアスパラが無かった。初めて食べたのは缶詰のホワイトアスパラだった。ぶよぶよのフニョフニョ、全然美味しくなかった。

当時は外貨獲得のため貴重な輸出品の一つとして栽培されていたようだ。だから生のホワイトアスパラは私たちの口には入らなかったのである。

暫くして、八百屋にグリーンアスパラが並ぶようになった。それでもまだ高価だった。サラダの中に2.3本のアスパラが盛られていればそれは高級なサラダだった。
パリのレストランでひょろひょろと細長いアスパラがフォアグラのステーキの横に添えられていた。察かに私たちが知るアスパラとは違う。ワイルドアスパラガスと言ったが、味の方はマイルドで美味しかった。

日本では北海道で多く栽培されている。春先まず採れるのがグリーンアスパラガスで少し暖かくなってホワイトアスパラガスという順になる。

アスパラは採りたてが一番うまい。時間が経つにつれ、アスパラの清明な香りが消えてしまう。アスパラを食べると頭が冴えるような気がする。気のせいだと思っていたが、アスパラの成分であるアスパラギン酸は脳内物質に反応し、中枢神経を刺激する機序が認められているから私一人のあながち思い込みばかりとも言えまい。

オースチンパワーズというナンセンスコメディの映画がある。主人公は小便小僧の横で頭像と同じカッコをして、敵から逃れるシーンがある。結局、アスパラを食べた主人公のおしっこの匂いで見つかってしまうのだが、ヨーロッパではアスパラを食べるとおしっこが臭くなるというのは広く膾炙されているようだ。

アスパラのことをつれづれ書いていたら玄関先に十勝平野で朝採れたアスパラが送られてきた。早速、梱包を解き、アスパラの匂いを嗅いで見る。切り口から水分が滲み出ている。新鮮な証拠だ。色々な食べ方があるがさっと湯がいて、オリーブオイルを掛けて塩コショウにレモ汁少々で食べるに勝る食べ方はない。




2014年4月1日火曜日

ユーミンの罪

 私が休日の三々五々にでも読むべく買ってあった本がない。家人に聞くと、借りていて今読み終わったとのこと。一言断り無きは言語道断と強気の言葉や嫌味の一つも言いたくなったが、ゴクンと唾と一緒に言葉を飲み込みやおら穏やかに妻に感想を聞く。
妻は読んでいて「ふーん」と思ったそうだ。感動も発見もなし、平坦な抑揚のないものだったと。

私が日本のポップミュージシャンの中で凄いと思ったのはこのユーミン(荒井由実)が最初。当時ユーミンの音楽を聞いた母は「何でこんな外れたような音がいいの」と音楽を全く理解できなかった。理解できない程凄かったのだと思う。歌詞の内容も知らない、若者が感じたのはその音楽の持つ叙情性だった。「ひこうき雲」が人の死と無関係でないこともうすうす感じていた。

ユーミンの歌の持つもう一つの特徴は極めて「額縁的」であるということだ。この点はこの本の著者、酒井順子さんも同じことを考えている。この額縁的というのはまず現実には絶対に有り得ないような完璧なシチュエーションということである。だから実際には手に取れない、遠くから眺めているだけなのだ。山手のドルフィンから見える景色は完璧で貨物船が通る。それをソーダ水の向こう側に見る。私のようなユーミンファンは絶対に歌に出てくる店にはいかない。最初から幻想と分かっているからだ。

そんなことを考えながら本を読む。妻と同じように「ふーん」と感じながら一気に読み終えてしまった。事象を時代と重ねあわせることは誰にでもできる。そこに必然性を与えれば立派なストーリーとなってしまう。でもこの本の著者はそんなことしたくなかったのではないだろうか。「ふーん」と一気に読ませることで偶像としてのユーミンと一人の人間としての「荒井由実」「ユーミン」「松任谷由実」を合体させたかったのではと思うのである。つまりは私も妻もしてやられたということか。





2014年3月31日月曜日

生ハムのお話

 家で人をもてなすときに出来る限り食材を探し求めて、私自ら調理することを建前としているので色々なことを勉強しなければならない。ワインもその一つだが生ハムも同様である。

 この所イベリコやハモンといったスペイン産の生ハムを毎年交互に購入して食べてもらっていた。もちろん高級なのはイベリコのベジョータという黒豚のどんぐりのみを食べさせたものであるが、毎年食べていると少し塩辛い気がする。白豚はそれに比べるとあっさりしているがやはり塩気が強いのは変わらない。
世界三大ハム(本当にそう呼ばれているのか不明ではあるが)といえばスペインの生ハムと金華ハムとパルマ・ハムである。このパルマは極力塩気を少なくしてつくる。つまり腐敗との追いかけっこである。当然、開封したら出来る限りはやく食べなければならない。そしてそうした繊細の味のハムとなると厚さと切り口が問題となる。イベリコの時には薄く切れない。切り口もギザギザになってしまう。写真家の西川治氏が十数年前のブルータスでイタリア食材の特集をやっていたのを思い出した。あの写真のハムはどれも薄く、艶やかにしっとりしていた。

となれば今回はシンタマのみを使った幻のハム「フィオッコ」という選択肢もある。因みにパルマ・ハム協会ではスライサーを使うことを薦めている。家人には内緒で業務用のスライサーがもうすぐ家に届くことになるだろう。



2014年3月28日金曜日

台湾料理

 友人が新幹線を彼の地に定着させるべく各企業体の代表選手として数年間台湾で仕事をしていた。その完成と単身で頑張ってきた友人を労うため、仲の良い数家族で台北に旅行したことがある。

 父にとって台湾は第二のふるさとのようなものである。父は晩年を台湾の山奥で陶芸の指導に心骨を捧げていたからだ。父が話すのは北京語だった。不思議な事に台湾は北京語が通じると言っていた。ご存じの方も多いと思うが、台湾では日本統治時代より後になって中国大陸から移住した人を外省人といい、それ以前から住んでいた人を内省人と呼ばれている。現在ではこうした区別は薄れては来ているが年輩者の多くは今でもこの事を意識している者も多い。

 台北に行って驚いた。台湾料理という看板の店は一つもないのである。友人から聞いて膝をたたきなるほどと思ったが、要するに中国全土から色々な料理が持ち込まれ、さらに台湾で昔から食べられていた料理と混血した家庭料理のことを台湾料理と呼ぶことを初めて知った。

 ツバメの巣や熊の手、フカヒレはあまり美味しいとは思わないが、この地で食べる中国料理はとても優しく私の舌に合っていると思った。
そういえば客家は流転の民としても有名だ。その客家が多く住む県が台湾にある。妻の好きな大根餅もその一つだ。父が大陸より台湾が好きだった理由も今は何となく分かる気がする。






2014年3月27日木曜日

昭和の犬

 テレビの事で昭和っぽいと揶揄したが、私が少年時代いつも側にいるのは雑種の犬だった。裏手の河原には野犬がいた。これは危ないので保健所の係の人(私たちは失礼にも犬殺しと呼んでいた)が捕まえて持ち帰っていた。車に積まれいつまで遠吠えをしていた白黒のぶちの犬の目が忘れられない。

 子犬は神社の社の下に段ボールに入れ捨てられていた。やっと目が開いたその犬を段ボールごと抱きかかえ家に持ち帰った。母いつも決まって飼っては駄目というが、私の泣き落としが失敗したことはなく、最後は仕方ないと言って飼うことを許してくれた。最初に飼った犬はコロと名づけた。2.3年生きたが病気で死んでしまった。次の犬はタヌといった。目の周りがぶちになっていた。この犬も2.3年で死んだ。当時の犬小屋は屋外にあり、北側で日の差さない劣悪な場所にあった。父親の手作りの犬小屋は粗末で北風が入り込み、犬は丸くなって寒さを凌ぐしかなかった。

 父親が誰も面倒を見ないと珍しく語気を荒らげて山奥に捨てに行ったことがある。しかし、翌日には何食わぬ顔でその犬は犬小屋で寝ていた。その時キソウホンノウという言葉を知った。

 3匹目はチコといった。高校生の頃だった。暫くすると彼女の足は外側に大きく曲がりはじめた。彼女は動物病院に初めて連れて行った犬だった。病名はくる病。日光不足が災いした。彼女は避妊手術もした。雑種だったが気が強く、食べている時に手を出すと家人の手でも噛み付く。しかし、私だけには従順だった。

 私が進学で上京した年に母が子宮筋腫の手術をした。母は犬の面倒を見ることが出来ず私に黙って保健所に渡した。私が何かの用で実家に帰ると犬小屋にチコの姿が見えない。母を問いただすと渋々本当のことを言い出した。私は急いで車のハンドルを握りアクセルを目一杯吹かして保険所に向かった。保健所の冷たいステンレスの仕切りの一番奥にチコはいた。なんとか間に合った。チコは私を見ると全身で喜びを表し、子犬のように甘えた。私はチコを奪い取り車に載せた。チコにゴメンネといい涙が止まらなかった。取り残された保健所の犬達が哀れだった。
そのチコも母が再婚をすることになり。山奥の農家に預けられた。真偽の程は確かめたことはない。ただ、そう思うことにしている。それから犬は飼わないと心に決めた。
今私の膝の上に11歳になるレオンベルガーのサクラが顔を乗せている。もう一匹の14歳のセプはテーブル下の定位置で夕食の準備を待っている。平成生まれのサクラもセプも、昭和生まれのチコやタヌ、コロも、ただ人のそばに一日でも多く居たいと思っている。これには平成も昭和もないのだ。




2014年3月26日水曜日

あわない奴

 私は人と合うときに先入観に引きずられないように出来るだけその人の良い面を見ようと努力することにしている。学歴や職歴など些細な事は聞かない。なんていうと偉そうに聞こえるがそうではなく、普通の人以上にバイアスに引っ張られる傾向があることを知っているからである。聞くことは一つ今何に熱中しているのか尋ねる。それでも半数以上は熱中しているものがないと答えが帰ってくる。そういう人とはあまり親密にはならない気がするが、これとて長い年月という押し蓋にかかれば馬の合う人となりえるかもしれない。事実、学生時代、こいつとだけはウマが合わないと思っていた男と30年以上付き合い、今では一番の相談者だ。

 なぜあわないと思ってしまうのだろうか。考え方が反対だからとも言えまい。逆に似ているからか、それもそうとは限らない。なぜなのか手繰ってみると、その時々であわないものが違うことに気がつく。例えは難しいが、その時々の自分の価値観の相克とでも呼べば良いのか分からぬが、そうなってはいけないと自分に言い聞かせる心の叫びに似ている。

 あわない奴が嫌いとかそういうのではなく、あわないただそれだけのことだ。カレーやラーメンについて執筆しているIKという人がいる。行ったことはないが横浜にあるカレーミュージアムの初代館長にもなったことがあるようだが、この人とはとにかくあわないのだ。この人が好きとか嫌いとか抜きにしてとにかくあわない。彼がプロデュースするカレーを食べたが違う意味で鳥肌が立った。カレーで食べられないこと自体珍しい。

 その人が絶賛していた湯島の親子丼を食べた。例えあわないと分かっていても乾坤一擲その努力は惜しまないのである。しかし食べてみて何で絶賛していたのかやはり分からない。玉子は極端に硬くなっているか生かどちらかで、鶏肉は塩辛い。丼というのはひとつの宇宙である。宇宙の中ではそれぞれが混ざり合ってひとつの宇宙を作らねばならぬのに、一つ一つがバラバラ別の方向を見ている。これでは丼もの失格である。やはりあわなかった。会わない奴と理解し、調停しようと試みる訳であるがこれがなかなか難しいのである。