動物はあまねく好きです。猿や馬や猫も鳥も蛇もカワウソもムササビもローチもみんな好きです。猿と馬とカワウソ以外は飼ったことがあります。
しかし私にとって犬はやはりかけがえのない特別な存在です。
兄弟もなく友達の少なかった私は母親の忠告も無視して、捨て犬を抱きかかえては帰り、外の小さな犬小屋で飼っていました。もちろん拾ってくる子は全てMIXです。しかし、十分な知識や犬と接する時間もなく多くは病気や怪我で失ってしまいました。
大学進学のため上京することになった折、どうしても離れ離れになった犬がいます。「チコ」といいます。
母が私の代わりに面倒を見ていたのですが、その母も病気になり、手放さざる得なかった辛い記憶があります。
やがて家庭を持ち娘や息子の子育ての真っ最中、もう犬は飼わないと思っていた折、ある先輩から犬がどれほど人を癒し、人のコミュニケーションを豊かにするか気づかされました。 オーストラリアの出来事です。
そらからというもの人の寿命より短い犬の生涯を最後まで付き添ってあげることが私の使命とばかり、犬との共同生活が始まりました。そして息子も娘も2世代の犬とともに成長しました。
先代のゴールデンリトリバーは「ジーニー」といい、我が家に魔法使い宜しく「幸せ」を運んでくれました。
その子が7歳で死んだときには、自分の父親が死んだときより悲しかったと覚えています。ペット・ロスとはこのことを言うのでしょう。心に大きな穴があいたようで、何もする気力も湧きません。
「ジーニー」の毛は形見として今でもお守りに入っていますが、一番悲しかったのはこの犬の毛が日ごと家の中から無くなっていくことでした。
そんなとき「虹の架け橋」の話を聞きました。きっと虹の架け橋の向こうで私たちを待っていてくれると、「ジーニー」は千の風になって今でも私たちの周りにいるのだと。そして「ジーニー」同様にもっと多くの犬に愛情を注いであげることが、精一杯生きた犬への恩返しだと考え直し新たな家族を迎える決心をしました。
「セプ」「さくら」はこうして迎えられました。家族からありあまる愛情を受け、一日でも、一分でも長生きして欲しいと思います。そして夭折した「ジーニー」の分まで長生きして欲しいと思います。
しかし私にとって犬はやはりかけがえのない特別な存在です。
兄弟もなく友達の少なかった私は母親の忠告も無視して、捨て犬を抱きかかえては帰り、外の小さな犬小屋で飼っていました。もちろん拾ってくる子は全てMIXです。しかし、十分な知識や犬と接する時間もなく多くは病気や怪我で失ってしまいました。
大学進学のため上京することになった折、どうしても離れ離れになった犬がいます。「チコ」といいます。
母が私の代わりに面倒を見ていたのですが、その母も病気になり、手放さざる得なかった辛い記憶があります。
やがて家庭を持ち娘や息子の子育ての真っ最中、もう犬は飼わないと思っていた折、ある先輩から犬がどれほど人を癒し、人のコミュニケーションを豊かにするか気づかされました。 オーストラリアの出来事です。
そらからというもの人の寿命より短い犬の生涯を最後まで付き添ってあげることが私の使命とばかり、犬との共同生活が始まりました。そして息子も娘も2世代の犬とともに成長しました。
先代のゴールデンリトリバーは「ジーニー」といい、我が家に魔法使い宜しく「幸せ」を運んでくれました。
その子が7歳で死んだときには、自分の父親が死んだときより悲しかったと覚えています。ペット・ロスとはこのことを言うのでしょう。心に大きな穴があいたようで、何もする気力も湧きません。
「ジーニー」の毛は形見として今でもお守りに入っていますが、一番悲しかったのはこの犬の毛が日ごと家の中から無くなっていくことでした。
そんなとき「虹の架け橋」の話を聞きました。きっと虹の架け橋の向こうで私たちを待っていてくれると、「ジーニー」は千の風になって今でも私たちの周りにいるのだと。そして「ジーニー」同様にもっと多くの犬に愛情を注いであげることが、精一杯生きた犬への恩返しだと考え直し新たな家族を迎える決心をしました。
「セプ」「さくら」はこうして迎えられました。家族からありあまる愛情を受け、一日でも、一分でも長生きして欲しいと思います。そして夭折した「ジーニー」の分まで長生きして欲しいと思います。