いも羊羹 舟和
私は甘いものが苦手である。どちらかというと進んで手を伸ばさない。そんな私でも無性に懐かしくなる甘味がある。それが舟和のいも羊羹である。
当時東京に住んでいた祖母は私のところに来るときに必ずこのいも羊羹とあんこ玉をお土産に買ってきてくれた。あの頃の私にとって東京の玄関口は浅草だった。東武線の急行に乗り浅草が近づくにつれ曳舟、鐘ヶ淵、北千住の寂しい駅を通り過ぎる。カーブで電車の車輪が軋む音が聞こえたら東京は近い。緊張で胸の鼓動が速くなる。
私の東京の一歩はいつも浅草だった。そのまま銀座線で渋谷まで小一時間地下鉄にのる。
駅につく前に一瞬車内の照明が消える。あれはつかの間のタイムスリップだった。
そして井の頭線に乗り換えて叔父の住む杉並に行く。
当時の私の家は裕福ではなくそうそう東京に行く旅費を出すことは出来なかった。だから祖母がやってくるのを心待ちにしていた。来ると分かってからはカレンダーにその日を書き入れ、指折り数えて待っていた。その日は授業が終わるや否や一目散に家に戻ったものだ。
そんな祖母が他界してからずいぶんと年月がたつ。祖母は叔父や母を連れて満州から引き揚げてきた。夫はシベリアの強制収容所で病死した。祖母はその労苦のためか脚が悪かった。その後女手一つで子供3人を育て上げた。残念ながら長兄は結核で若くして命を落としたが、二人を育あげた。晩年の祖母は経済的にも恵まれ多くの孫たちに囲まれて暮らした。
今でも不思議な事がある。いも羊羹とは別に祖母が買ってくるものがあった。私達が食べないから買わないように釘をさしていたにもかかわらず買ってくるのだ。それは浅草のデパートの地下で売っているお好み焼きだった。そのお好み焼きは粉っぽくて、卵はカラカラに乾燥して、キャベツはぼそぼそするとても美味しいとは言えない代物だった。しかし毎回買ってくるのだ。今思うと祖母にはお好み焼きに何か特別な思い入れがあったのかもしれない。今ではそれも聞くことは出来ないが、誰でも美味しいとか不味いとか、好きとか嫌いとか、そういうことではない心の中の特別な食べ物が存在するのだから、祖母だってあったのだろう。私にとってのいも羊羹のように。