哲学するパン屋
246を渋谷方面から下って三宿の信号を左折する。その通りは左手には知り合いがデザインした骨董家具を扱う店があり、適度な道幅と街路樹の緑が美しい。そのまま進むと駒沢通りに行きつくが、店が連なっているのは前半部分のみ。
私はこの通りが好きだ。とりたてて通う店があるわけではないが、車を停めるパーキングメーターもあり、車用族には便利だから。交番を左折すれば東山の官舎跡を通り抜けて山手通りに戻れる。
交番の斜め前にハンカチを専門に扱う店がある。最近、丸の内にも店を出したというからこの店も全国区になってきたようだ。スーツを着ている時私はハンカチを必ず携帯する。当たり前といえばそうだが、持つハンカチにも拘る。真っ白な薄いハンカチでは冠婚葬祭のようでもあり、子供っぽい図柄も好きではない。どこか英国をイメージするタータンチェックやアーガイルの紳士物が多い。ここではオリジナルにイニシャルを入れてくれる。今も薄いブルーと冠婚葬祭用の白の二つをイニシャル入りで所有している。
暫く直進して交差点の手前を右折し道なりに進む、ある建物が見えてくる。すでに30年以上経過しているその建物は鉄筋コンクリートの3階建てでエレベーターはない。
この建物を見るたびに私がこの仕事を始めた時のことを思い出す。毎月末にこの建物の3.4室の家賃の集金をしていたからだ。
集金の時間は早すぎても遅すぎてもいけない。何故なら早すぎると夕餉の支度で手が離せないと口実されてしまうし、遅すぎると寝てしまったと言われるからだ。そこで丁度良い、時間を狙うのである。私の考えるベストな時間は7時45分だった。それが功を奏したのかは不明だが家賃の遅れは少なくなった。
店子にも色々な人がいる。いつも面倒を掛けて申し訳ないと私に手土産を渡す人、お金を払ったんだといわんばかりに偉ぶる人。人ぞれぞれだった。
数年前、知り合いの会社がデザイン性の高い建物を作った。半地下になっていて、大きなガラス面が緑を映し出す。その建物にテナントとして入ったのが「シニフィアン・シニフェ」というパン屋である。私は滅多なことでは自分からパンを買う事はないが、我が社に在籍していた女史がパン好きで、美味しいパン屋のことをよく調べていた。
この店の店名のシニフィアンは誰もが知っている共有できる事という意味で、もう一方のシニフェは個人の思い出や憧れという意味らしいが、詳しい内容については何分、大学の第二外国語のフランス語は授業に1回しか出席せず、辞書持ち込みでやっとCを戴けた輩だったのでご容赦たまわりたい。というわけでなにか哲学の雰囲気のするパン屋なのである。
お気に入りは無花果やレーズンの入った硬いパンである。パンの名前は忘れたが赤ワインと大変相性が良かった。このパンをスライスしてブルーチーズを端に乗せ口に運び、ピノノワールを流し込む。ビロードのような滑らかな喉越しとスミレのような香りが鼻腔を刺激する。
私の場合、パンはワインのためにあるのは間違いないだろう。決して主食にはならないが。