Ⅷ
洋一のフローリアンはエンジンを掛けるのにチョッとしたコツがある。ディーゼルエンジンなのでチョークを引いてエンジンにいれる空気の量を調整しなければならない。寒い冬は少し多めに、そして暖気されたあとは引かなくてもよいといった塩梅に天候や温度に左右される。一番やっかいなのは雨が降った時だ。どうもエンジンがへそを曲げるらしく、洋一でも旨く掛らない事が多い。掛ったとしてもエンジンは洋一に不満を言うが如く黒い煙を吐いてまるで監督に向かって何とか演目に応じた我儘な女優といった素振りをするのだ。
洋一のフローリアンにはフリーマーケットで購入した安物のサーフボードラックが付いている。中古で買ったそれは緑色の塗装がところどころ剥がれてゴムも頼りない代物だった。このラックの事をアロハサーフボードラックというそうだ。何がアロハなのか分からないがこの奇妙なネーミングのそいつとは終生このフローリアンが廃車になるまで共にすることになる。
洋一はフローリアンを東に向けて運転していた。車が飯倉の交差点に差し掛かる頃、東の空が明るくなってきた。洋一はこの前初めて飯倉を「いいぐら」と読むということを知った。上京して5年目の秋だった。
色を持たなかった洋一のフローリアンのボンネットも、本来のベージュ色が太陽の光に照らされ金色に光って見えた。
洋一は24時間営業をしているイタリアンレストランの横で車を止めた。優子との待ち合わせの時間にはまだすこし早かった。洋一は店の中でひとり時間をつぶすことがあまり得意ではなかった。洋一はカーラジオのスイッチを回した。しばらく回しながら周波数をいつも聞きなれたFENに設定しようとするがここは横浜と違いどう調整しても雑音が多かった。洋一は雑音のままラジオを聴いていた。
ラジオからレイパーカーJrのA woman needs loveが流れてきた。
洋一はこの曲のWOMANが単数形なのにNEEDSが複数形でLOVEが単数形なのかぼっーと考えていた。
曲がジョンレノンのStarting Overに変わる頃、道路の反対側のタクシーから降りてくる優子を見つけた。優子は足早に道路を横切り洋一に手を振ってそのまま助手席に滑り込んだ。