この夏、先兄に勧められて早瀬 耕という私より一回り若い作家の小説を読んだ。最初に読んだのが「未必のマクベス」という小説だった。プールサイドでゆっくり読むつもりだったが、冒頭のマカオのカジノのシーンからそのまま引き込まれ一気に読んでしまった。小説がデビュー作「グリフォンズガーデン」から20数年ぶりの新作と知ったのは後だった。そして彼のデビュー作、その続編とも言うべき「ブラネタリウムの外側」を続けて読んだ。読後の感想はどれも清々しいものだった。
彼の小説をSF小説と言う人がいる。何故、人はそう決めつけるのだろう。小説は小説である。読後に清涼感を感じ、また読みたくなる小説は良い小説である。それがSFであろうと、難解で読みづらいものであろうと良い小説とはその一点に尽きる。
ロパート・A・ハイラインの「夏の扉」も私にとってはそうだった。学生の頃、一気に読み進みその読後の満足感は今でも覚えている。ただ、その当時、アメリカの公文書図書館があった街「カールスバッド」を知ったのは息子の机の上にこの小説があったのを発見した30年も経った時だった。
村上春樹を好きな人も嫌いな人もいる。それはそれで良い。でも前述の私のように自分の知識や見識が乏しく気づかなかったり、知識や見識を取り入れたくないという怠惰な考えのため拒否しているならば既に読者崩壊である。
美意識というもの、自らの嫌悪の集積であると伊丹十三はその考えを述べているが、それはあくまで嫌悪できるだけの知識の集積の上に成り立つ。
早瀬 耕にしても村上春樹にしても読者をその世界に連れて行ってくれる。それは私たちの記憶の断片に語りかけ「ねえ、そうだったでしょう」と甘い言葉で囁きかけてる。
3号線から見える西陽のあたるベランダにゴムの木のあるマンションを探したものは私だけではあるまい。陸羽茶室で広東語と大きな麻雀牌あたる喧騒のなかで、何故かBei XuのTou are so beautifulを聞いたのも私だけではあるまい。
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2014年12月4日木曜日
好きこそものの上手なれ
我が社のスタッフA女史が私の薦めた本を寝る前に読むとお腹が空いて困るというのである。
幸せな気持ちにはなるがどうにもこうにもお腹が空いて終いには読んだことを後悔するのだそうだ。
それは困った。確かに平松洋子女史の文章は平易でしかも写真付きであったりするので目からすっと胃の中に収まってしまう。
ならばと私が用意したのは開高健氏のエッセイである。
日本の文壇において氏の食と釣りに関するエッセイは三指に入ると思っている。氏は生前、物書きたるもの筆舌に尽くしがたいなど言語道断、筆舌に尽くすのだと言っている。
氏は同時に物書きたるもの筆を錆びさせることは出来ず、味覚をペンでなぞることは勉強になると言っている。
この辺りを勘案すると氏は自分の好きな釣りと食のエッセイを書くことで、本業の小説のためのアイドリングをしていたのではないかと私は睨んでいる。
ヘミングウェイも同様だ。ただ、彼は本業の小説の中に己の好きなことを挿入し楽しんでいる。海流のなかの島々であそこまでマーリンの種類や生態を細く書き連ねる必要もないのに嬉々として書く。
しかし、人間このアイドリングをしている間はストレスがなく(好きなことをしている)自由な発想が次から次へと浮かんでくるのではないか。
この最後の晩餐とて初めは食のことを書いていたかと思えば、話はカニバリズムから秦の始皇帝に飛び最後はもうお腹いっぱいとペンを置く。
これならば読者は食べ物の妄想にとりつかれるしまもなく読了してしまうだろう。
ただし頭の中がメリーゴランド宜しくクルクル周りマリ・アントワネットやマザーテレジアがしおからやなれずしを食べ、エスコフィがブルーストにアブ社のリールで釣り上げたあんこうのパンパンに張り切った肝を蒸し器で蒸し上げ食べるのを見て、心性のの内幕に潜む徹底的なアナキストの影に怯えていたのだとして眠れなくなっても知らない。
土桜の名刺がしおり代わりなのはいただけない。
幸せな気持ちにはなるがどうにもこうにもお腹が空いて終いには読んだことを後悔するのだそうだ。
それは困った。確かに平松洋子女史の文章は平易でしかも写真付きであったりするので目からすっと胃の中に収まってしまう。
ならばと私が用意したのは開高健氏のエッセイである。
日本の文壇において氏の食と釣りに関するエッセイは三指に入ると思っている。氏は生前、物書きたるもの筆舌に尽くしがたいなど言語道断、筆舌に尽くすのだと言っている。
氏は同時に物書きたるもの筆を錆びさせることは出来ず、味覚をペンでなぞることは勉強になると言っている。
この辺りを勘案すると氏は自分の好きな釣りと食のエッセイを書くことで、本業の小説のためのアイドリングをしていたのではないかと私は睨んでいる。
ヘミングウェイも同様だ。ただ、彼は本業の小説の中に己の好きなことを挿入し楽しんでいる。海流のなかの島々であそこまでマーリンの種類や生態を細く書き連ねる必要もないのに嬉々として書く。
しかし、人間このアイドリングをしている間はストレスがなく(好きなことをしている)自由な発想が次から次へと浮かんでくるのではないか。
この最後の晩餐とて初めは食のことを書いていたかと思えば、話はカニバリズムから秦の始皇帝に飛び最後はもうお腹いっぱいとペンを置く。
これならば読者は食べ物の妄想にとりつかれるしまもなく読了してしまうだろう。
ただし頭の中がメリーゴランド宜しくクルクル周りマリ・アントワネットやマザーテレジアがしおからやなれずしを食べ、エスコフィがブルーストにアブ社のリールで釣り上げたあんこうのパンパンに張り切った肝を蒸し器で蒸し上げ食べるのを見て、心性のの内幕に潜む徹底的なアナキストの影に怯えていたのだとして眠れなくなっても知らない。
土桜の名刺がしおり代わりなのはいただけない。
2014年2月19日水曜日
言葉の問題
村上春樹氏の新作「ドライブ・マイ・カー」での文章の一部が問題になっているという。私も読んでみた、確かに北海道の実在する町の名前を記している。そしてその女性に向かって「***町ならみんなタバコを道に捨てているだろう」と書かれている。これを見て一部の町民が目くじらを立てたわけだ。私たちはそんな公共のルールを守らない人間ではないと。彼らは文章全体を読んで作者の意図を理解しているのだろうか。
例えば私のことを家人の誰かが「北関東の辺境の人間が魚を食べて美味しいとか、美味しくないとか、ホザイている事自体馬鹿馬鹿しい」と言ったとする。だからといってこれが本当に北関東の人全てを馬鹿にしているわけではない。私のことを特定して揶揄しているだけだ。私個人の特定にはディレクトリが役立つ、これはよく私たちも使う。関西人だからとか、関東の人はなど頻繁に使う。つまりすべての人がそうだと言っていないし、悪意もない。あるのはその女性に対する怒りや失望だ。
こんな事を抗議する町議たちは今のマスコミにも似ている。重箱の隅をつついて全体を見ない。
そう考えると小説家というのは大変な職業である。そういえばこんな事があって筆を折った人がいた。村上氏にはそうなってほしくないと願うのである。
2014年1月17日金曜日
昭和という時代 「姫野カオルコ 昭和の犬」
昭和という時代はもっと寒かった。現代のようにTシャツにユニクロのフリースを着てさっと出掛けられる訳ではなかった。靴下を二重にして厚手のウールのオーバーを着込んでマフラーに耳あてまでさせられた。だから冬はひどく動きにくかった。
姫のカオルコの「昭和の犬」という小說が直木賞に選ばれた。小說に出てくる主人公は強い。強さをひけらかす事はさして難しいものではない。強さを忍ばせて普通の平穏さを装う強さだ。
私はこの本を読んでいて。小学生の時にクラスにいた女の子を思い出した。その子は特別学級にいたので時折一緒になる程度であったが、軽度の障害のためか会話は得意でなかった。周りからはその事でからかわれたり、馬鹿にされたりしていたが本人はそのようなこと、どこ吹く風と言わんばかりにいつもニコニコしていた。
その女の子は飼育室のうさぎの世話をするのが好きだった。餌のキャベツだけでなく、校庭の裏の畑を耕している小さな菜園の人からもらった大根の葉やあぜ道の繁縷を摘んできてはうさぎに食べさせていた。
あるとき心ない同級生がその子の机の上に袋に入ったあるものを置いた。袋の中身は死んだ兎だった。女の子がいつも世話をしていた白いうさぎだった。赤い目はそのまま見開かれ、兎の小さな手足は固く曲がったままだった。恐らく当時のこと、真冬には赤城おろしの北風で暖房もない飼育室は氷点下になっていたから凍死したのだろう。
女の子はその兎を抱きしめて声を出さずに泣き続けた。ただ、ただ兎に覆いかぶさるようにして下を向いて。兎を持ってきた男の子はバツが悪くなったのか、チェっと言ってその場から居なくなってしまった。
それから半年が経って、その女の子の姿を見かけなくなった。しばらくして、持病の心臓病の悪化でその女の子が死んだことが先生から告げられた。
あれから45年経つ。この小説を読んでその女の子のことを思い出した。
2014年1月14日火曜日
檸檬と無縁坂
私は大して勉強もせず市内唯一の進学高に入学できた事で、自分は他の人より出来ると訳の分からない思い上がりと根拠の無い自信で暫くの間は有頂天になり、妄想と夢の中で暮らしていた。そんな思いあがりと自信は一瞬に音を立てて崩れた。
私はその夏、親に無理を言って駿河台にある予備校の夏期講習に行かせてもらった。幸い叔父が杉並で建設会社を経営しており、私ともう一人の男は叔父の家に無賃で宿泊させてもらった。今考えれば分かることなのだが、幼い子供二人を育てながら、若い職人の世話もしなければならず、地方の若者二人を居候させる余裕などないはずなのに、叔母も叔父も嫌な顔ひとつせず私たちをその夏の間中、預かってくれたのだ。
夏期講習の期間中、試験が何回か行われた。特に酷かったのは数学で目も当てられなかった。隣に座った都内の有名進学校の生徒は私の3倍以上点数をとっていた。
私は早々に理系を諦める事になった。では文系の科目はというと、英語はまあまあだったが、国語が今ひとつだった。当時の私の担任の先生は京大を卒業し高校に赴任してきたばかりの国語の先生だったが、配属早々ラグビー部の顧問も引受、クラスの誰に対しても平らな態度で接してくれ、私はその先生に密かに憧れていた。その先生が、「君たちはどのくらい名作と呼ばれている本を読んだことがあるのだろうか。もし、現国の成績を伸ばしたいなら、とにかく名作と呼ばれるものを片っ端から読んでみるといい。意味なんて解らなくてもいい。覚えていなくてもいい。読んでいたのと読んでいないのとでは雲泥の差になる」というような事を言っていたのを思い出した。普段なら、人が読みなさいとか、読んだほうがいいよというような本はへそを曲げてまず読まない。ところが、その時は羅針盤を失った動揺か、どんな風の吹き回しか本を読んでみようという気になった。
叔父の家を出て、五日市街道のバス停で中野行きのバスに乗る、曲がりくねった道でもつり革につかまり必死に文字に目を追った。結果、ひと夏で四十冊、名作と言われる本を読み終えた。
その最初の本が夏目漱石の「雁」だった。何故その本にしたのかというと、当時、フォークソング全盛の頃で「無縁坂」という曲がヒットしていたからだ。無縁坂が何処にあるのかも知らない田舎の高校生は明治の時代にその無縁坂を舞台にした小說があるということだけで、興味を抱いたのだ。
この小説は2回ほど映画になったようだ。残念ながら二つとも見ていない。最初の映画は高峰秀子さんお玉をやったようだ。2回目は若尾文子さん。いずれも、薄幸なお玉には綺羅びやか過ぎる気がする。
大人になってからの話だが郷土史を研究している人から東京近郊の地形図を見せてもらったことがある。それによると丁度この辺り本郷台地の東端にあたるところで不忍通りに向かって坂が多かった。根津に行けば同様な地形で団子坂もある。こちらは蕎麦通では有名な藪そばの発祥の地でもある。そんな地形ゆえ坂はいくつもある、その一つが無縁坂である。
無縁坂から不忍池を見渡すと今でも雁の姿が見られる。残念ながら目の前には中華料理店の建物工事が進められており数年経つと明治の頃よりのその景色が見られなくなってしまうかもしれない。無縁坂の登り切ったところに鉄門がある。江戸時代の種痘所があった頃からここに門があったようだ。鉄門の由来は、木製の扉に鉄で打ち付け鋲で留めてあったその姿からのようであるが、今はすらんとした涼しい現代風の門に変わっている。
あの夏、御茶ノ水からここまで歩いた記憶がある。無縁坂にはその当時でも小說に出てくるような木造のしもた屋はほとんど見かけなかった。当時、坂沿いに数件のマンションが建設中だった。お玉が窓越しから岡田を見ていたあの情景は見られるはずもなかったが、それ以上にここに行こうと誘った男から、行っても意味が無いと言われたことに心が折れた。もちろん、私は東大を受験する気も能力も無かったが、その男の夢のない考えにショックを受けていたのだろう。帰り道で立ち寄った御茶ノ水の画翆「檸檬」のアイスコーヒーの苦かったことを覚えている。その「無縁坂」に四十年後に息子が住むことになるとは。人生というものは本当に面白い。
2013年11月12日火曜日
ロマネ・コンティ
ロマネ・コンティ
男の名前は今野禎三。友人は彼をコンティと呼ぶ。恐れ多くもあの偉大なワインの名前を諢名に拝借している。男は艾年をとうにすぎ60歳を目前にしていたが、身長は183センチでがっしりとした体躯、少し色黒な肌、鋭い眼光はとてもその歳には見えなかった。
男はヨーロッパやアメリカから食品を輸入する専門商社、その食材を使って展開する飲食チェーン、さらにその儲けた利益を効率よく運用する投資会社を所有していた。従業員数は延べにすると1000人を超える。欧米の一部の国では飲食店の出店の条件として現地の人間をある一定雇用しなければならない。幸いなことに禎三は英語、スペイン語、フランス語、ドイツ語を自由に操る事ができた。結果的に飲食店は国内だけでなく上海や北京、ニューヨーク、ロサンゼルス、地図上の大都市と思しきところに彼の店の看板を目にすることが出来た。ただしパリを除いて。
男はつい3日前に会社のすべてを譲ってきたのだ。
男には二人の子供がいた。長女はすでに結婚をしてボストンで暮らしている。相手の男はユダヤ系のアメリカ人でハーバードを出ていた。その男も長女も男の実家のことは決して口にしなかったが、禎三は結婚する直前に現地の社員を使って調べさせたことがあった。その調書によると男の父は世界的富豪の一族で兄弟には共和党の政治家や銀行の頭取もいた。そしてマンハッタンにいくつものビルも所有していた。ところが本人はお金や社会的地位には全く関心がなかった。夏の間は大学で数学を教えていたが、冬になると寒いボストンからフロリダに避寒して大道芸をして暮らしていた。夫婦は裕福ではなかったがとても幸せそうだった。
長男は今カンボジアにいる。長男は幼い頃から手が掛からない子だった。幼くして母をなくし禎三の手ひとつで育ったのに禎三を困らせたことは禎三が覚えている限りなかった。成績は飛び抜けていて塾に通うこともなく最難関の大学の医学部に現役で合格した。その後医師となった彼は日本の医療における国際貢献の一環として途上国の医療機関の整備についてそのガイドラインを整備する仕事をしていた。彼もまた薄給ではあったがとても幸せそうだった。
男が事業を譲った男は、今のビジネスを立ち上げた時から男の右腕となり尽くしてきた人間だった。男は数年前より全ての事業を彼に任せ引退することを決めていた。
男は数年前の検診で医師からある事を告げられていた。それまで馬車馬のように働き詰めで検診やドッグの類には行ったことのない禎三だったので医師に言われてもさほど驚かなかった。
禎三は子供の時に重い病気をして腎臓を取り出していた。禎三の身体には腎臓はひとつしかなかった。いつもの生活でそれを思い出すようなことはなかったので医師に言われて自分がそうだったことを改めて確認したようなものだった。
その医師によると禎三はウィルス性の肝炎を発症していた。子供の時の手術が原因だったのか今となっては調べる術はないのだが、血液等を介して感染する病気だった。現代の医療ではインターフェロンというこの病気の特効薬があり、殆どの場合ウィルスを除去できることになっている。
ところが禎三には問題があった。あまりに長い間放置していたこともあり、血小板が極端に減少していたのだ。この血小板を増加させない限りインターフェロンの治療は行えない。
禎三はその後数年間、社員や子供には何も告げずに一人で血小板を増加させる治療を続けていたが、血小板の数は良くなることも、また逆に低い数値に戻ったりの繰返しだった。
-つづく-
2013年11月8日金曜日
テロワール
テロワール
その男は湖を眼下に見下ろす暖炉の前でイームズのラウンジチェアに脚を組みながら一人ワインを飲んでいた。指先を少し広げたチューリップの形をした大ぶりのグラスにそのワインは注がれていた。
ボトルには擦り切れたラベルにVosne-Romanee 1er Cre Cros-Parantoux 1979と書かれている。グラスに注がれたワインは縁に雫を残しながら底に落ちていく。沈む太陽を見送るようにわずかに残った青空に映しだされたその液体はすみれ色に染まりながらゆっくりと溜飲される。
男はこのワインのアペラシオンを見学したことがある。ブルゴーニュでは土壌、気候、ぶどう品種を総じて=テロワールと呼ぶ。そしてそのことが特に大切にされる。前年にどんなに良いワインを作ったとしても天候不順でその力量を伴わない年には生産されない場合もある。もっともこれは地理的な特徴が大きく、ブルゴーニュがボルドーと比べてより北にあり夏の日照時間こそ変わらないものの、夏暑く、冬寒い大陸性気候が南部より顕著でしかも春の降水量が多く、収穫期の秋に少ないというワインにとっての最高の条件が重なるからだ。そして結果的により敏感で繊細なワインを作ることになる。
ブルゴーニュの土地の特徴は石灰質だという人がいる。間違ってはいないが正しい表現ではない。白ワインに有名なMONTRACHETがある。これは禿山と言う意味である。この言葉が表すようにブルゴーニュの土地の多くは母岩の上に薄い表土が重なり、一般的には山の頂に近いほど表土が薄くなる。だからMONTRACHETになる。
ブルゴーニュの母岩は一般的にバジョシアンとバトニアンというジュラ紀のものである。つまり石灰岩が主岩である。たからひとくくりに石灰岩質と呼ばれる事が多い。この母岩により土地に自然な起伏が生まれ、斜面上部は表土が薄く、小石が目立ち、下部は泥灰岩層が入る。平坦部の表土は酸化鉄の多く含んだ粘土質が多くなり赤っぽくみえる。
このワインは数年前までアンリ・ジャイエという著名な醸造家によって創りだされていた。残念ながら彼は他界し現在では親戚筋にあたる人物が代わりに作っている。人は変わったが現在でも先代の醸造法を頑なに守っているようだ。
クロ・パラントゥーが生産されるのはリュシュブールの斜面に位置する。馬の背に近く北東を向いているため特に冷涼である。小石が多く粘土石灰岩質にさらに泥土が混ざっている。男はその畑が特に赤っぽく見えたことをぼんやり思い出していた。
男は昨日、日本から戻ってきたばかりだった。男はジュネーブ空港で着ていたカシミアのコートを車のトランクに放り込み、迎えに来ていた運転手にアヌシーの街に行くように告げた。空港から市街まで20分ほど掛かる。程なくして真っ白なベントレーは滑るように酒屋に横付けされ、運転手がドアを開ける間もなく男は早足で店内に入っていった。
男は日本に行く前に酒屋の店主にあるワインを探してくれるように頼んでいた。男はもし手に入るならば相場の三倍を出すと店主に約束した。店主は知り合いのワイン商やレストランのコック達に片っ端からこのワインがあるか聞いて回ったが、そんなものあるわけないといった反応がほとんどで誰も店主の話を真面目に聞こうとはしなかった。もっとも年代物のワインというものは特に当たり年のワインは値が張るがまだ市場に存在する場合がある。しかし、当たり年でないものはさっさと市場から消えてしまうからだ。
男が日本に着いてから5日目の日だった。酒屋の店主から男に電話が入った。リヨンにある小さな知り合いのレストランで1本だけこのワインがあるという。それも石造りのセラー内で定温貯蔵されていた状態のよいものだった。それをレストランでは譲っても良いという話だった。男は値段を聞くまでもなく、店主にこのワインを買うように伝えた。
男は早速酒屋の主人に代金を払い、ワインについてあれこれ説明しようとする店主の口を塞ぐようにさらに手の中にチップをネジこんだ。店主は何も言えず笑みを浮かべただその男が乗る白いルールスロイスを見えなくなるまで見ていた。
男はそのワインボトルを労るように隣のベージュ色のコノリーレザーのシートの上に寝かせ、上から小さなドキュメンケースをボトルが揺れ落ちないように被せ、運転手に注意して運転するように指示してから目を閉じた。
車はつづれ折りの山道をゆっくりと駆け上がり、雪を頂いたモンブランが遠くに見える頃にはアヌシー湖は眼下に小さくなっていた。
-つづく-
2013年9月11日水曜日
1978 PERFECT DAY
錆が車体のあちこちについた茶色のフローリアンはブスブスという不快な音をたてながら国道から松林の小道に止まった。車のバックウィンドゥは土埃にまみれていた。
土埃が収まるのを待って、二人の若者は眠たい目をこすりながらドアを空け、車外に出て星空に手が届くような大きく伸びをした。月は雲間に隠れながら太陽の上がるのを待っていた。松林には初秋の風が吹き抜け、二人の頬をさすって流れていった。
二人は同じ高校の同級生だったが、今は二人とも東京の違う私立大学に通っていた。ひとりは一浪したため学年がひとつ下だったが、ノンシャランな二人はうまが合い、いつも一緒にいた。サーフィンを始めたのもほぼ一緒だったが、ほんの少し優夫のほうが早かった。二人は車の屋根についた緑色の安物のサーフラックからボードを降ろして、道路わきに立てかけた。優夫のボードはアイパのツインフィンのクリアデッキの真新しいものだった。久夫のボードは中古で買った稲妻マークのライトニングボルトの赤いボードであちこちにリペアの跡があり早く新しいものに買い替えたいと思っていた。
鍵をバンパーの中に隠して、二人が足早にビーチに向い歩いていく頃には東の空が明るくなり、金星は群青からオレンジのグラデーションの中に消えて行った。
ポイントにつく頃には烏帽子岩がくっきりとその姿を現していた。台風が種子島の東にあって東北東に向かっている。うねりは筋となって沖合から向かってくるが、オフショアの風で完全な姿を保っている。面は完全にクリーンで鏡のように朝日を浴びて輝いている。
サーフィンをしていて時折思うのは、今日のような完璧な日があるということだ。PERFECT DAY。湘南にも少ないがそんな日が数日ある。今日はそんな一日だ。
ポイントには二人以外にはいなかった。優夫が最初の波をつかまえてテイクオフするがレールがひっかかってワイプアウトした。ボードが飛沫をあげて高く舞った。久夫はうまく波をつかまえアップスンダウンを数回繰り返し波の裏側に消えて行った。二人でしばらくセッションを楽しんだ後、ポイントに人が集まり始めたので少し沖にパドルアウトしていってポイントの様子をぼんやり眺めていた。
10年経って、いや20年、30年経って今日の事をこの二人は覚えているのだろうか。今日のPERFECT DAYの事を。それよりも二人はサーフィンを続けているのだろうか。二人ともそれぞれの道を歩み、それぞれの家族を持ち、人生という荒波の中に船出しなければならない。今日はそのほんの束の間のPERFECT DAY。
2013年7月16日火曜日
HAPPINESS IS THE SAND BETWEEN MY TOES AND THE SUNBURN ON MY NOSE
HAPPINESS IS
THE SAND
BETWEEN MY TOES
AND THE SUNBURN
ON MY NOSE
その男は手作りの白いバルコニーのテーブルで手紙を読みおえると、手紙をゆっくりと封筒に戻し、節だらけの皺の寄った黒い手のひらで口元を押さえ、目をそっと閉じた。
その男はカンザスの小さな町で生まれた。その街はトーレンスから50マイルも離れた場所にあり雑貨店とガソリンスタンドの一緒になった店と小さな食堂が一件あるだけの街だった。
その男の家に父親はいなかった。父親はその男が歩くようになる前に家を出てい行ったきり帰ってこなかった。家には母親と二歳年上の姉がいたが、姉とその男は血が繋がっていなかった。
その男は18歳になるまで一度も街から出たことはなかった。
その男はハイスクールを卒業すると同時に運送会社に運転手として勤めた。
トラックはヘイズというインターミディエイト沿いの街から18時間掛けてロサンゼルスまで家畜の飼料を運ぶ仕事だった。
アメリカには州と州を結ぶインターミディエイトと呼ばれる道路がある。このトラックも1-70Wという西行きの道路をスタートし、デンバーを超え、1-15Sとその道路は名前を変えるが、辺りの景色は乾燥した砂漠のようで、スタートした時から1ミリも移動していないと錯覚するほど同じ景色だった。
その男は30歳になる時に初めて家を出た。ロングビーチ近くのトラックの運転手の集まる食堂で働いていたスワミーという女性と結婚したからだ。彼女はメキシコからの不法移民の子供で英語はあまり上手ではなかったが、最初会った日に彼女の黒い瞳の中に母の優しさと強さを感じた。
二人はサンディエゴから北に寄った海沿いの街に暮らした。その男は以前と同じようにトラックの運転手を続けた。妻は街の小さな食堂でウェイトレスとして働き、贅沢は出来なかったが、慎ましながら二人の子宝にも恵まれた。
二人は時間が空くと、家の目の前のビーチに出掛けた。北と南に岩場のある半月上の砂浜はいつも子供たちの遊び場だった。
その男は誰かから貰い受けたボロボロのサーフボードでサーフィンを覚えた。この辺りは寒流の影響で夏でも水温は低い。それでも裸のまま疲れるまで何回も何回もパドルアウトしていき、波がしらから見える妻と子供達の姿を見る事を楽しみとしていた。
息子が家を出たのは2年前になるが、既に娘は結婚して家の近くで暮らしている。息子は奨学金で大学を卒業し、シリコンバレーのIT関連の会社に勤めた。忙しくて帰ってくるのはクリスマスの時くらいだ。
手紙には病気の母親が死んだ事が記されてあった。化学療法で癌の治療を続けていたが、すでに1年前より手の施しようがないと医者に言われ、痛みを緩和する治療だけ続けていたが、2.3日前より呼吸不全に陥っていた。
母あれから一度も街を離れなかった。母はカリフォルニアで生まれたと聞いたことがあったので、本人に聞いてみたが、いつもはぐらかし、本心は決して見せなかった。
その母が死んだ。海を見た事があったのだろうか、いや見たくなかったのだろうか。
キッチンから妻が暖かい紅茶と手作りのマフィンをダイニングテーブルに持ってきてくれた。戸外に出てそっと肩に置いた妻の手が暖かかった。その男はバルコニーからビーチサンダルの砂を落として妻の後ろから家の中に入って行った。
2013年4月13日土曜日
村上春樹にご用心Ⅳ 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅」
村上春樹にご用心 Ⅳ
夜中に並ぶ勇気と体力は持ち合わせてないのでアマゾンに注文していた。発売日翌日には手元に届く予定になっていた。ところが昨日書店の平積みされた本を見るや他の本に混ぜ隠すように会計を済ませていた。つまり土曜日には2冊同じ本が手元にあることになる。
私は誰に何と言われようが村上春樹氏のファンである。それも相当のファンだ。
第一の理由であるが氏は私より一回り上であるが、氏の観て来たものの多くは私と時代をだぶらせて体験している。つまり私がとても「共感」できるという点である。私は小説においてこの共感こそが面白いと思うか、思わないのかを大きく分けるものだと思う。
もうひとつは彼の言葉の巧みさである。これは彼の観察眼によるところが大きいのではないか。例えば1Q84に出てくる3号線の描写。西側のベランダにゴムの木があると描写している。そこに置かれる木はゴムの木でなければならないのだ。アジャンタムでもベンシャミンでも駄目なのだ。ゴムの木でなければ。高速道路に面したマンションのそれも高速道路から見えるベランダは滅多に開けられる事も無く、そこにぽつんと取り残されたゴムの木がいわずとこの物語の方向性を与えている。
私は一時期、伝説のバーラジオに通っていた。通っていたと言うほどの常連ではないが先輩にくっついて末席で静かにグラスを傾けていたのである。そのバーラジオで村上春樹氏や安西水丸氏、糸井重里氏にも邂逅した。同じような空間にいたのに彼の観察眼はそのまま彼の身となり肉となり筆致に生かされている。氷一つの描写も舌を巻かざる得ない。まさしく仕立ての良いオーダースーツのように無駄な物は無く、その言葉が文章にぴたっと収まっている。
話を「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅」に戻そう。
もちろん、まだ1回読んだだけだし、内容を話すなんて無粋な事はしない。
ただ、冒頭から村上ワールド全開である。さらに物語に花を添える音楽の話題にも事欠かない。1Q84がヤナーチェックだったのに対して今度はどんな音楽が用いられたのだうか。読めばすぐにわかる。村上氏の文学はジェネレーション文化だと言う人もいる。確かに私もその点の面白さは前述のように理解できる。しかし、本作はそうじゃない物も書けるよと氏からメッセージを受けた気がする。これも読めばわかる。
凡人の私にはただ悪戯にギムレットやマティーニを飲んでいるだけで何一つ身にならなかった。ところが氏は違う。バラバラに分解咀嚼され再構築されている。そこが凡人と違うところだ。ノーベル賞を獲ろうがとらぬかは、私にとってさほど重要ではない。それよりも一冊で多く著作を世に出して欲しいと願うのである。これからも村上春樹にはご用心が続くと思う。レコードの針をスターターのブラックドッグに落としたものが、天国への階段に変わろうとしている。コーヒーは冷めてしまった。
2013年3月15日金曜日
オリーブと南風
なだらかな坂が南に続いている。その坂はずっと向こうで一度底を打ち又そのまま上昇し行き止まりの大通りにぶつかる。
康夫がここに引っ越してきたのは2年前だった。それまで康夫は川崎に妻と二人で暮らしていた。妻とは見合い結婚だった。結婚して今年で5年目になるが子供はいない。康夫は幼い頃母を亡くした。父はその後ずっと一人暮らしをしていたが2年前亡くなった。
康夫はその知らせを出張先の札幌のホテルで受けた。その数日前父と話をしたばかりだったのであまりの急な事で頭の整理が出来なかったが、死因は入浴中の心臓発作と言う事で痛みや苦しみは無かったとのことだった。それを発見したのは作りすぎた料理や土産物をよく持ってきてくれる囲碁仲間だった。その囲碁仲間によるとまだ体は暖かく、とても死人には見えなかったという。
康夫は札幌に一人で行っていたのではない。康夫には10年以上付き合っていた女性がいた。その女性は康夫が結婚する前から付き合っていたので康夫の妻の事も良く知っていた。一方妻はその女性の事を知らないのか、または全く無視していた。
女性は妻とは正反対な短髪でスポーティな女性だった。仕事はフリーのカメラマンであったがこの頃は有名な賞も獲り売れっ子カメラマンの仲間入りを果たしていた。仕事場は東京と札幌にあり、札幌出張の時には康夫のホテルで会っていた。
康夫はベッドから起き上がるとシャワーを素早く済ましホテルのフロントでチェックアウトした。女性は康夫より一足先にロビーをすり抜け、タクシーを呼んでいた。康夫は女性がタクシーに乗り込むのを建物の中から確認し、自分も空港に向かった。
葬儀はひっそりとしたものだった。父は上場企業の役員をしていたが退職してからは以前の同僚や後輩との付き合いも無く、せいぜいごく限られた地域の囲碁仲間と交流する程度だった。通夜の日に集まった来客も帰り、居間に設置された棺に入る父をみて、体が一回り小さくなっていることに気付いた。その時妻が横で「ここに住もうか」と言いだした。
あまりの突然な事だったので康夫は事の成り行きが理解できずにいたが、どうやら本気のようだった。
康夫には兄弟はいない。ただ、今までは妻は子供が出来るまではどうしても同居したくないと言い父の所からもさほど遠くないこの沿線に暮らしていた。
妻は福島の浜通りの出身だった。大学は東京の短大で英文学を学び医療機器メーカーに就職した。そのメーカーは康夫の取引先だったので、上司から見合いの話が出た後は、とんとん拍子に結婚まで運んだ。結婚式は都内の中規模な宴会場で行われた。いまどきの豪華な式ではなかったが出席者は親族と双方の会社の人が中心だった。康夫は結婚式の当日になってもその女性が自分の妻となることが不思議だった。
父の住むこの家は環状七号線の外側の住宅だ。以前は大きな邸宅が立ち並んでいた高級住宅街であったが、多くの家が相続で切り売りされ、新しく出来あがる家はどれも小さくなっていた。父は取り立てて植物に興味があった訳ではないが、南側に面した猫の額ほどの庭にオリーブを植えていた。苗木から育てたその木はどんどん大きくなり人の背丈をゆうに超えていたが、何年経っても実を付けなかった。実を付けないことに父はどうしてだろうと口癖のように呟いてはいたが、敢えて深く調べようとはしなかった。
父はわずかであったが少しばかりのお金を残していた。康夫はそのお金を使って細切れだった4LDKの間取りを3LDKに変更した。浴室もキッチンも全て新しくした。
ただ手を入れなかったのは庭だった。
妻が二階から白で濃いブルーに縁どられたダンスクのマグカップ2つ持って降りてきた。脇には何かのパンフレットを挟んでいた。康夫は陽のあたる縁側で妻からマグカップを受取り、横に置いたパンフレットに視線を移した。パンフレットは近くのレディースクリニックのものだった。
庭のオリーブに目をやると、白い葉裏が西日に照らされて輝いていた。その逆光の中に目を細めてみると小さな黒いものがある。
南風が強くオリーブを揺らした。黒いものがオリーブの実である事が二人にははっきり分かった。妻が康夫に今年は白い花が咲いていたと言った。康夫は知らなかった。
2013年1月29日火曜日
とんび岩
太一ことターボーの家と良平の家は直線距離にして500メートルしか離れていなかった。二人は学校から帰るとランドセルを放り投げるようにしていつも真っ暗になるまで遊んでいた。そんな二人のクラスに鈴木勝男が転校してきたのは小学校5年のときだった。
鈴木勝男は背が高くひょろっとしている。背が低いターボーとは対照的だ。勝男は浦和から転校してきた、父親の仕事関係とか言っていたが、そもそもこの街の小学校で転校生は珍しい。小学校、中学校と学校は変わるが、生徒のメンツは変わらない。
クラスの担任が勝男の紹介を終えると、勝男を良平の席の隣に座らせた。先生は良平に宜しく頼むとポンと肩に手をおき、くるりと反転し黒板に向かった。良平はそう先生に言われたことが少し誇らしかった。
それから3か月が過ぎた。勝男は体育の授業では球技はあまり得意ではなかったが、駆足だけは早かった。今までクラスで一番早かった男子と競争した時も大差で勝利した。
勝男は痩せていたことでスイッチョンという渾名をもらった。この地方ではクツワムシに似た、ウマオイのことをスイッチョンと呼ぶ。ただし、勝男のそれはその駆け足の早さから「スイッチ・オン」をもじった名でもあった。
3人は土曜日の午後、とんび岩に行く約束をした。とんび岩はその街の西に位置していた。周囲を山に囲まれているその街はどこへ出掛けて行っても山がすぐ追いつく。とんび岩はその山の中腹にあり、とんびが羽根を畳んでひょんと留まっている姿に似ているからつけられたようだ。良平は街を睥睨するようにその場所にあるその岩が好きだった。
3人とも小さなナイロンのナップサックを背負っていた。この街のはずれにある競艇場の開場20周年の記念に貰ったものだった。
途中の駄菓子屋で3人は飲み物を調達した。良平とターボーはグレープ味のチェリオを買った。勝男は透明のスプライトにした。
途中まで道は舗装されていたので3人は自転車で登り口に位置するその小さな公園まで行った。公園に着くころには背中にびっしょりと汗をかいていた。山の稜線にそって3人は登り始めた。
途中、地表に飛びだした木の根っこの上を土と同化した落ち葉が重なり、足を取られそうになったが何とか半分辺りまでたどり着いた。さらに進もうと良平が二人を振り返ると、勝男が「変な虫がいる」と地面を指差した。ターボーがその虫を見る。それはオケラだった。勝男はオケラを見たことが無かったのだ。虫の好きなターボーがそのオケラを捕まえて、ビニールの袋に入れようとした。良平はターボーをたしなめるように、「オケラは明るいところにいると死んでしまう。目が見えない彼らは太陽の光をとても嫌うんだ。だから、持ち帰っても死んでしまう」ターボーは残念そうに袋からオケラを取り出し草むらに放した。
太陽が西の山に近づいたころ3人はとんび岩にたどり着いた。3人とも汗だくで疲れていた。岩は2段になっていて、丁度段と段の繋ぎ目が平らになっていた。そこに3人は腰を下し、持ってきた飲み物を飲んだ。眼下に自分たちの学校が見える。とても小さなその建物は模型を見ているみたいだった。こうして街を見てみるとあれだけ大きく広いと思っていた街も案外小さいものだと思った。この街から離れたことのない二人はこの街の外のことが気になった。どんな街があって、どこに続いているのか。漠然とした少年の気持ちはその後の二人の人生におおきく影響を与えることになる。
2013年1月24日木曜日
PM 6:50
美佐子の息子は浩一郎の息子の勧めもあって塾に通い始めた。もともと成績は悪くなかったので試しにテストを受けさせてみたらかなりの高得点をとりそのまま特待生となった。特待生は授業料が掛らない。美佐子にとってはありがたかった。
それと同時に息子へのいじめは影を潜めた。一緒の塾に通うTやHが息子をかばうようになったのだ。庇うようになったといより、むしろ今までいじめていた方といじめられていた立場は逆転した。
息子は大きいお兄ちゃんとの約束を守っていた。「もし友達が出来て、相手より優位な立場になったとしても、仕返しをしてはならない。そうすることがいじめには一番良くないことだから。それをいじめの連鎖という。君はいじめている子になってはいけないから。そう、いじめの連鎖は断ち切らなくてはならない」
息子の顔が前より柔和になった。そして何より勉強という集中できるものがあることで、精神的に一回り大きくなったような気がした。今までは読まなかった新聞も目を通すようになった。
どうして難しい漢字が読めるようになったのか不思議な思いで見ていると、分からない漢字を辞書で一生懸命に調べていた。分からない事はそのままにしない。自分で調べるといった事を実践しているようだった。浩一郎の息子から貰った辞書の一番最後のページに息子の名前が書いてあった。そしてその横に「君なら出来る」と書かれていた。美佐子嬉しくて目頭が熱くなった。
2013年1月23日水曜日
1981年のゴーストライダー Capter3 Ⅰ
Capter3 Ⅰ
優子は目の前の黒い巨大な建物を見上げていた。その建物は竹橋の交差点にある新聞社の隣にあった。優子はこの新聞社に見覚えがある。
それは洋一が就職する以前のことだった。洋一の友人が新聞配達のアルバイトをしていた。新聞配達のアルバイトと言っても早朝にオートバイや自転車で各戸に新聞を届けるものではない。それは新聞販売店に直接新聞を運ぶ仕事だった。
用賀にあるトラックに乗り竹橋のこの新聞社でインクの匂いが強烈な印刷したての新聞を受取り、二ノ宮や国府津の販売店まで運ぶ仕事だった。
ある時その友人が体調を壊して洋一にピンチヒッターを依頼したのだ。優子はその内容が楽しそうなので洋一のピンチヒッターについていったことがあったのだ。仕事を終えると帰り道の大磯港でトラックの荷台に隠してあったアイパのツインフィンとモスのコンケープの深く入ったダブルフィンのボードを使って形の良いショルダー程のレギュラーの波を2時間半ほど楽しんだ。
優子はそんな楽しさとは裏腹に今、目の前の建物を見つめていた。
その建物は石張りで、窓ガラスはピカピカに拭きあげられ、誰の目からもお金が掛ったものであることはわかった。
建物が持つ威圧感とは結局中で働く人間の弱さの代償の様な気がしていた。それに石張りの建物は墓石を連想させていた。
湿った石積みの階段を上がると、入口には制服を着た警備員が入館者のチェックをしていた。濃紺のスーツを着た優子は建物の窓ガラスに映り込む青空を一瞬見つめ、それからすうっと深呼吸した。警備員に要件を伝え足早にエレベーターホールに向かった。
その会社は子供から老人まで名前の知らない人はいないような、名の通った商社だった。本店を関西に置くその商社は財務内容が堅実で、石橋を叩いても渡らないと比喩されていた。優子はそんなことはどうでも良かった。早く面接を済ませて表に出たいという気持ちだった。この慇懃な建物を心底嫌悪していたから。
思いのほか面接は順調に進んだ。優子は余計な事を言わなかった。ただひとつ日焼けしていることで何かスポーツをしているのか尋ねられた時に、父と一緒にゴルフをしていると嘘をついた。相手の面接官が左手にグローブの跡がないことを尋ねられたが、その跡が嫌なので手袋をしないでプレーしていると嘘を重ねた。
ひとりの面接官はまだ優子とさほど歳の離れていない若者だった。もう一人の面接官は年の頃にして40代前半といった感じだが頭が後退し観た目はもっと老けて見えた。お腹のあたりに脂肪がたまり、着ているワイシャツも妙に窮屈みえた。面接が終わると優子は足早に入ってきた玄関を目指した。優子は表に出ると同時に大きく深呼吸した。まるで嫌な物を吐き出すように。
2013年1月16日水曜日
AM3:50
AM 3:50
美佐子の息子の学校は歩いて10分程の場所にある。幹線道路から一歩入ったところにあるその学校はとても静かで都内では珍しく土の広い校庭がある。このあたりは元々陸軍の練習所があった場所で、終戦後はその土地は分割され国の色々な施設に名前を変えた。近くには何の変哲もないグレーのコンクリートの建物が数多く存在する。それらはすべて官舎だった。この小学校にもこれらの官舎から通学する子供が多くいる。彼らの両親は有名大学を卒業し、国家公務員試験をパスしたいわゆる官僚と呼ばれる人種である。彼らの子供の多くは中学受験をして、別の中学に進む。美佐子の息子のクラスも3分の一の子供は中学受験をする。
いじめが始まったのは今から半年前になる。美佐子は自分の息子に片親だと言う気持ちが強くならないように出来る限り、こざっぱりした綺麗な洋服を着せていた。若い子の間で流行っているようなダボダボのジーパンやトレーナーのようなストリートファッションはご法度だった。美佐子に言われた通りシャツはズボンの中にしまって、襟近くまでボタンをきちんと留めてその上にトレーナーを着ていた。ただズボンをベルトではなくサスペンダーで吊っていたのだった。
体育の授業で着替える時だった。誰かがそのサスペンダーを指差して、へんなやつと言い始めた。その時は数人が冷やかし半分にそんな事を言っていたが、体育の授業が始まりみな授業に集中した。問題が起こったのは体育授業が終わって着替える時である。
Nと数人がサスペンダーを反対に付けて、息子が着替える時に困惑した顔を嘲笑したのだ。
それ以来事あるごとにNと数人のいじめが始まった。ほんの些細なことをきっかけにいじめは陰湿さを増した。机の中にひどい言葉を書いた手紙と虫の死骸が入れられていたこともあった。下駄箱の靴に砂が入れられることもあった。息子もそんな現場を見て犯人を追い詰めようとしたが、まるで蜘蛛の子を散らすように要領よく逃げ去ってしまう。
いじめの中心はNだった。彼は中学受験組だった。その中では成績はあまりぱっとしない方でなんとか辛うじて幾分名の通った私立中学の数校を目標にしていたが、塾で名前が張り出されるようなことはなかった。Nの両親は共働きだった。父親は大手製薬会社に勤務していたが休日は接待ゴルフで家には寝に帰るようなものだった。母親は父親と同じ大学の薬学部の後輩で卒業と同時に薬剤師の免許を取った。このところ色々な店で薬を扱うようになり、この資格はとても重宝がられ、週5日は家の近くの働きに出ていた。
実を言うと美佐子の息子はNとほとんど接点がなかったのだ。遊んだこともなければ、何かのサークルで一緒だったと言うこともない。それなのに何故その暴力の矛先が向けられたのか誰もその理由を説明できなかった。ただ、いじめの標的がたまたま目の前にあったからだとしか言えない、それほどに無秩序で混沌とした。
数人が駆け足で校門から出てきた。それからしばらくして美佐子の息子は下を向いたまま重い足取りで玄関から出てきた。周りには友達はいない。ひとりだった。浩一郎の息子は校門の横にそれをただ眺めて立っていた。サイレンの音が近づいては遠ざかっていった。
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