Ⅱ
洋一は経営企画室に配属されていた。街づくりや広告の奇抜さが話題になっていた会社だけに傍目には地味なこのセクションに配属されたことは洋一にとって屈辱であった。
しかし、よくよく考えてみると派手な広告や宣伝の仕事も会社という大きな組織からすると末端の組織でしかない。いつでもその要素は還元されるし、変更もされる。それに引き換え経営企画室というのは組織を体に例えるならば、脳のようなものである。何をするにもその基底が必要となる。そう考えると配属先でうかれている同期の男達を冷めた目でみられるようになっていた。
洋一が軽井沢にきたのは業務命令だった。先に来ている上司と合流する予定だったが洋一は敢えて2日前に来ていた。洋一の会社は某流通グループに属していた。テレビでは同社のイメージ広告と言う手法がもてはやされ、「おいしい生活」なるコピーライターの作った言葉は流行語となっていた。グループのトップは学生時代左派に傾倒し、当時のグループの総裁である父から疎まれグループの基幹事業である鉄道事業を弟に譲られた経緯もあり、密かに弟が行っていたホテル事業への参入を狙っていた。
洋一は軽井沢の某所にその先鞭となる施設を建設するためその事前調査のために派遣されたのだ。
計画はあくまで好戦的にホテル事業を始めるのではなく、某社団法人を利用し、その厚生施設として建築し、相手の動向を見極めながらホテル化しようとするものであった。
数年前から関係先の社団法人にはそれなりの寄付をしている。また、自らの渋谷の施設にその関連する自転車ショップも開店させ、同時に二人の有力な選手のスポンサーとしてオリンピック出場に向け応援もしていた。
予定地は東雲という軽井沢の交差点を左に入った場所だった。駅から5.6分という立地だった。周りは別荘地で洋一でも知っているような著名な政治家や財界人のもの目立った。
洋一のフローリアンは上信越道のインターチェンジで一般道に合流し、軽井沢駅に向けて北上していた。軽井沢と言っても駅の南側にはその弟が経営するゴルフ場とホテルが広大な敷地とその威容を誇り君臨していた。それ以外は何もない。洋一は好戦的でないという言葉を頭の中で取り消していた。
洋一の車は東雲を過ぎ2泊だけ自分で予約したホテルの駐車場に向かっていた。木立の中を抜けると木造の瀟洒な建物があらわれた。車はザラザラとした未舗装の駐車場の一番隅に停められた。大きなメタセコイアの枝が洋一のフローリアンを隠すように日陰を作っていた。