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2012年12月18日火曜日

1981年のゴーストライダー Caper2 Ⅱ



洋一は経営企画室に配属されていた。街づくりや広告の奇抜さが話題になっていた会社だけに傍目には地味なこのセクションに配属されたことは洋一にとって屈辱であった。
 
しかし、よくよく考えてみると派手な広告や宣伝の仕事も会社という大きな組織からすると末端の組織でしかない。いつでもその要素は還元されるし、変更もされる。それに引き換え経営企画室というのは組織を体に例えるならば、脳のようなものである。何をするにもその基底が必要となる。そう考えると配属先でうかれている同期の男達を冷めた目でみられるようになっていた。

洋一が軽井沢にきたのは業務命令だった。先に来ている上司と合流する予定だったが洋一は敢えて2日前に来ていた。洋一の会社は某流通グループに属していた。テレビでは同社のイメージ広告と言う手法がもてはやされ、「おいしい生活」なるコピーライターの作った言葉は流行語となっていた。グループのトップは学生時代左派に傾倒し、当時のグループの総裁である父から疎まれグループの基幹事業である鉄道事業を弟に譲られた経緯もあり、密かに弟が行っていたホテル事業への参入を狙っていた。

洋一は軽井沢の某所にその先鞭となる施設を建設するためその事前調査のために派遣されたのだ。

計画はあくまで好戦的にホテル事業を始めるのではなく、某社団法人を利用し、その厚生施設として建築し、相手の動向を見極めながらホテル化しようとするものであった。

数年前から関係先の社団法人にはそれなりの寄付をしている。また、自らの渋谷の施設にその関連する自転車ショップも開店させ、同時に二人の有力な選手のスポンサーとしてオリンピック出場に向け応援もしていた。

予定地は東雲という軽井沢の交差点を左に入った場所だった。駅から5.6分という立地だった。周りは別荘地で洋一でも知っているような著名な政治家や財界人のもの目立った。

洋一のフローリアンは上信越道のインターチェンジで一般道に合流し、軽井沢駅に向けて北上していた。軽井沢と言っても駅の南側にはその弟が経営するゴルフ場とホテルが広大な敷地とその威容を誇り君臨していた。それ以外は何もない。洋一は好戦的でないという言葉を頭の中で取り消していた。

洋一の車は東雲を過ぎ2泊だけ自分で予約したホテルの駐車場に向かっていた。木立の中を抜けると木造の瀟洒な建物があらわれた。車はザラザラとした未舗装の駐車場の一番隅に停められた。大きなメタセコイアの枝が洋一のフローリアンを隠すように日陰を作っていた。
 
 

小説と写真

今ここに一冊の写真集がある。いや写真帖か。

私は氏の「図鑑少年」を読んでからずっと気になっていた。「図鑑少年」に主語は登場しない。

どこまでも客観的に風景や心情を即物的に捉える。これが私には心地よいと思った。

この写真帖は1980年代の初頭にニューヨークのおもにイーストビレッジに氏が暮らしていた頃に撮り集めたものだ。

氏は私より一回りは違わないが先輩である。つまり27.28歳の女性が今のような治安ではない80年代にひとりNYで暮らしていたのだ。

ニューヨークの地下鉄は犯罪の象徴であり、きっとそんな街に一人で出掛けることはきっとかなりの覚悟が必要だったはずだ。むしろ覚悟というより諦念に近いものか。

私も体が覚えていることがある。危険な街の中に放り出されたらまず自分に出来る事は五感を研ぎ澄ますことだ。聴覚は鋭敏になり、匂いや光にも敏感になる。

きっと彼女はそんな諦念の中に自信を見つけて、街に出たのだろう。

写真を見ると分かる。氏がどこまでも存在をなくしていることを。まるで透明になったように。

そうすることでありのまま景色が違った意味を帯びてくる。

竹田花氏の写真集を思い出す。写真を撮ると言う事は極限まで自己を透明にして表現する事なのか、小説もまた自己を極限まで解体し再構築するのだとすれば、優れた文章にはこの共通する無為なものが必要となる。

私にはそのどちらもそのかけらも永久に見つけることは出来ないだろう。

パリの蚤の市を歩いている時に妙な緊張感が突然私の背中に走った。

妻は能天気に足取りも軽く喜び勇んでいたが、その直後、数人の子供達に囲まれライターで妻のコートの肩口に火を付けられた。

私が追い払うと逃げて行ったので大事には至らなかったが、その時の子供達のひそひそ声や大人の女の笑い声がスローモーションの映像のようにはっきりと今でも瞼の裏側にこびりついている。

あのときの緊張感こそが今の東京にはないものだったのかもしれない。

氏は私の大学の先輩でもある。当時の先輩達はこうして海外に出て行き貴重な経験をしてそれを豊饒な記憶と共に日本に持ち帰って来ている。

驥尾に付す。そんな言葉を思い出す。