数年前に鎌倉の博物館でバックミンスター・フラーの催し物があった。
その頃知り合ったN氏がフラーのジオデシックドームの研究者だったことは偶然である。
その後数冊のフラーの本を読んだ。
そんな中にこんな文章があったので紹介したい。未だに操縦方法を会得しえない某国の首相にも読んでもらいたいと願って・・・・
私たちが原子炉からのエネルギーにもっぱら頼り、自分たちの宇宙船の本体や装備を燃やしてし
まう愚さえ犯さなければ、
「宇宙船地球号」に乗った全人間の乗客が、お互いに干渉しあうこともなく、
他人を犠牲にして誰かが利益を得たりすることもなく、
この船全体を満喫することは、
十分実現可能なことだとわかっている。
「芹沢高志氏訳 ちくま学芸文庫 「宇宙船地球号 操縦マニュアル」より抜粋
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2011年8月3日水曜日
地震では死なない
私は地震では死なないと思っている。根拠などない。でも地震では死なない。(はずである)
今回の大震災の際も背中の筋肉の肉離れのため起き上がることも出来ず、ソファに寝たきりだった。大きな揺れを受け、目の前の高さ6メートルの書架の本が落ちてきたらそれこそアウトである。
でも一冊も落ちてこなかった。
一方、落雷には自信がない。
前の会社で岐阜に赴任している時、今は亡き大専務の愛用のクラブを勝手に持ち出し、岐阜関カンツリーでプレーをしていたときに、ティーグラウンドでこれからティーショットを打とうかと思ってテイクバックをしようとしたとき近くに雷が落ちた。クラブをすかさず投げたのでクラブに雷が落ちた。
クラブはお釈迦である。私は尻もちをついた。それ以来大専務のバッグには6番アイアンはない。
ロードバイクで鶴見川を走っている時、急に雷の音がした。私のバイクは究極のカーボン仕様、カーボンでないのはタイヤとギアとチェーンのみ。
つまりはバイクまるごと被雷針というわけ。
くわばら、くわばら、雷にはからきし弱い私なのです・・・・
今回の大震災の際も背中の筋肉の肉離れのため起き上がることも出来ず、ソファに寝たきりだった。大きな揺れを受け、目の前の高さ6メートルの書架の本が落ちてきたらそれこそアウトである。
でも一冊も落ちてこなかった。
一方、落雷には自信がない。
前の会社で岐阜に赴任している時、今は亡き大専務の愛用のクラブを勝手に持ち出し、岐阜関カンツリーでプレーをしていたときに、ティーグラウンドでこれからティーショットを打とうかと思ってテイクバックをしようとしたとき近くに雷が落ちた。クラブをすかさず投げたのでクラブに雷が落ちた。
クラブはお釈迦である。私は尻もちをついた。それ以来大専務のバッグには6番アイアンはない。
ロードバイクで鶴見川を走っている時、急に雷の音がした。私のバイクは究極のカーボン仕様、カーボンでないのはタイヤとギアとチェーンのみ。
つまりはバイクまるごと被雷針というわけ。
くわばら、くわばら、雷にはからきし弱い私なのです・・・・
新陳代謝 郊外の街
新陳代謝といっても人間のそれではない。街のお話。
三浦展氏が著書「家族と郊外の社会性」でも郊外の街がもつ脆弱性については触れられていたが、私の住む田園都市沿線はまさにそんな郊外の一つ。
いち早く開発の始まった駅周辺程この傾向が強い。
青葉台の東急百貨店に午前中に行くと、まさに老人だらけ、よくもまあ同じような年齢の人が来ている驚かされる。
家の近くの東急分譲地も同じような作りの家が立ち並び住んでいる人も同じような年齢層の人達である。
子供たちは外に出て孫との同居も少ない。
そうした街は人間の新陳代謝が著しく犯されている状態である。
自分とは異質なものを受け入れない、老害である。
老害から立ち直る秘訣は「受け入れること」である。
ある知識人が情報の階層化と情報の劣化について述べていた。確かにそうかもしれない、並列的情報の発信が可能になった現在、情報の質を見極めるのは蓋し難しい。しかし、それを釘づけにして発信を制御することは従来の情報の片務化を揺り戻す愚挙に等しい。
「受け入れ」「吟味し」「選択する」これしかないような気がするのだが・・・・老害の街においてはもはや無理な課題か・・・・
三浦展氏が著書「家族と郊外の社会性」でも郊外の街がもつ脆弱性については触れられていたが、私の住む田園都市沿線はまさにそんな郊外の一つ。
いち早く開発の始まった駅周辺程この傾向が強い。
青葉台の東急百貨店に午前中に行くと、まさに老人だらけ、よくもまあ同じような年齢の人が来ている驚かされる。
家の近くの東急分譲地も同じような作りの家が立ち並び住んでいる人も同じような年齢層の人達である。
子供たちは外に出て孫との同居も少ない。
そうした街は人間の新陳代謝が著しく犯されている状態である。
自分とは異質なものを受け入れない、老害である。
老害から立ち直る秘訣は「受け入れること」である。
ある知識人が情報の階層化と情報の劣化について述べていた。確かにそうかもしれない、並列的情報の発信が可能になった現在、情報の質を見極めるのは蓋し難しい。しかし、それを釘づけにして発信を制御することは従来の情報の片務化を揺り戻す愚挙に等しい。
「受け入れ」「吟味し」「選択する」これしかないような気がするのだが・・・・老害の街においてはもはや無理な課題か・・・・
My Dream #1 海の家
今年のような冷夏はちょっとどうかとも思うのですが、私の夢の一つに人生の中でひと夏だけ「海の家」をやりたいのです。
もっとも我儘な私の海の家ですから、いつも開店休業のような店でしょうが、あの海の家の雰囲気が大好きなんです。
私が理想とする海の家はすべて裸足(またはビーさん)ですごせる砂の家で、南洋の木が生い茂ったバーがあります。目指すはモルディブのビリンギィリのレストランです。今ビリンギリはシャングリラホテルズが運営する高級リゾートになってしまいましたが、昔は日本人の奥様が作る味噌汁の美味しい庶民的な島でした。写真は今のシャングリラよりお借りしました。
冷たいビールはもちろんですが、モヒートもジントニックも手を抜かず本格的に作ります。
メニューは偏向的です。ケサディーラ、タコス、ジャンバラヤ、トムヤムクンです。
サマーベッドはハレクラニのようにクッション付でボーイがタオルでくるみます。
手をあげたお客様のもとにはシュガーケーンのアロハを着たボーイが素早くオーダーに伺います。
夕刻になると中央の焚火に灯がともり、ボサノバが流れます。
浮き輪も何も貸し出しはありません。
夕刻からは本格的な9フィートのロングボードを無料で貸し出しします。
もちろんオーナーと友人用のハンモックが海風を受けてゆらいでいます。
マイドリーム#1ささやかな私の夢です。
江戸の描写 山本一力
丸の内は三菱、日本橋は三井が開発している。
三菱は「明治」、三井は「江戸」をテーマにしているのは既知の通り、そんな江戸の描写が特に旨い作家がいる。
あかね雲で直木賞を受賞した山本一力氏もそのひとり、そんな彼と数人が江戸の食と文化を書いた本がこの本です。
この本に出てくるお店は単に美食を提供する店ではなく、粋でイナセナ店です。
江戸、日本橋、食、文化に興味のある方にお勧めの一冊です。
三菱は「明治」、三井は「江戸」をテーマにしているのは既知の通り、そんな江戸の描写が特に旨い作家がいる。
あかね雲で直木賞を受賞した山本一力氏もそのひとり、そんな彼と数人が江戸の食と文化を書いた本がこの本です。
この本に出てくるお店は単に美食を提供する店ではなく、粋でイナセナ店です。
江戸、日本橋、食、文化に興味のある方にお勧めの一冊です。
池澤夏樹 個人 世界文学全集
全部揃えると言うのも如何なものかと数冊買い求め、しばらくするとまた数冊買い足しているような全集が私の場合多い。
この河出書房より発刊された池澤夏樹個人世界文学全集もそのひとつ、リョサ、ケルアック、サガン、ピンチョンは既に読んだ。
そうだコンラッドは読んでいなかった。それに短編にも興味がある。
早速、オーダーした。
この全集は「世界はこんなにも色々な見方があるんだ」とキズカセテくれる。
日本に居て我々はどれくらい人種差別やアフリカの貧困を理解しているのだろう・・・
死の哲学 膵臓がん
妻の友人が末期の膵臓がんにかかっている。
妻とは縁があって他の人より半年勉学に勤しんだ(留年?)間柄である。
2年前に同じく直腸結腸の癌で亡くなったT先輩とも独身の時に一緒に芝公園のプールにもいったことがある。
私達の結婚式にも出席し、大学の同期のO氏ともよく話していた。
そんな彼女はアイルランド系のアメリカ人と結婚したが、結局子供に恵まれず、数年前に離婚していた。
若い時の彼女は特に笑い顔がチャーミングで、箸が転げただけで笑っていた。
彼女は今、洞爺湖で療養している。余命半年と告げられてから1カ月。
彼女は最初他人事だと思っていたようだ、しかし、時間とともにその現実を受け入れ、必死に理解しようとしている。
息子の医学の本に書いてあったが、誰しもそうした魂の変遷をたどるようだ。
悔いのない人生などない、どんなに好きなことをやってももう少し生きていたと誰しも思うのだ。
彼女に対して如何に我々は無力か、現在の医療が如何に儚いものなのか強く感じる。
洞爺湖に行くも良し、帰郷して抱き合うもよし、同じ時間を生きた戦友として何もできないまでも彼女の恐怖や憤懣に共感してやるが良い。
我々もいつかかならずそちら側に向かうのだから・・・
妻とは縁があって他の人より半年勉学に勤しんだ(留年?)間柄である。
2年前に同じく直腸結腸の癌で亡くなったT先輩とも独身の時に一緒に芝公園のプールにもいったことがある。
私達の結婚式にも出席し、大学の同期のO氏ともよく話していた。
そんな彼女はアイルランド系のアメリカ人と結婚したが、結局子供に恵まれず、数年前に離婚していた。
若い時の彼女は特に笑い顔がチャーミングで、箸が転げただけで笑っていた。
彼女は今、洞爺湖で療養している。余命半年と告げられてから1カ月。
彼女は最初他人事だと思っていたようだ、しかし、時間とともにその現実を受け入れ、必死に理解しようとしている。
息子の医学の本に書いてあったが、誰しもそうした魂の変遷をたどるようだ。
悔いのない人生などない、どんなに好きなことをやってももう少し生きていたと誰しも思うのだ。
彼女に対して如何に我々は無力か、現在の医療が如何に儚いものなのか強く感じる。
洞爺湖に行くも良し、帰郷して抱き合うもよし、同じ時間を生きた戦友として何もできないまでも彼女の恐怖や憤懣に共感してやるが良い。
我々もいつかかならずそちら側に向かうのだから・・・
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