1978 新宿 ミスターサマータイム
あの年の夏は暑かった。1978年、70年代も終わろうとしていた夏。
焼けたアスファルトにワラビーのゴムソールがグチュグチュと嫌な音を立てていた。
若者が地上に出て向かったのは高野フルーツパーラーだった。建物の上階にワールドレストランという世界中の名物料理を集めた施設があった。若者はそこで生まれて初めてカネロニを食べた。その料理が旨いのか不味いのか判断する舌さえ持ち得ない初めての経験。新宿はまだ混沌としていた。
あの頃新宿にはコンパという安居酒屋があった。代官山に実家を持つ裕福な先輩が後輩を良く連れて行ってくれた。先輩がボトルキープしてある酒を飲んだ。酒は角瓶だったと思う。なにせオールドは高級品だったから。
その店はコンパエアラインと言った。店内はカウンターがいくつかあって、それぞれが別の航空会社の制服を模した洋服を着た若い女性がカウンターの中に入っていて、お酒を作ってくれた。私達はオニオンスライスを頼んでただ酒を飲んだ。私はSASと書かれたカウンターが好きだった。スカンジナビア航空の模倣。
当時はサラサラの長い髪が流行りだった。それに反してそのカウンターの女の子は短い内向きのカールしたショートヘアだった。何となく一時代前のような髪型に惹かれた。あの店は幻だったのだろうか。しばらくするとその女の子は店を辞めていた。体を壊して実家に戻ったと聞いたが、妊娠して休学したという噂が流れた。
東京はある意味物凄いスピードで変化していた。新宿西口の暴動も反戦運動も何事も無かったように消し去られ新しいものが作られていった。
キャンディーズは普通の女の子に戻りたいと解散した。普通と普通でない境界線、正気と狂気の境界線が曖昧だったあの頃、ミスターサマータイムがどこからともなく流れて来たあの夏。
若者の部屋には緑の植物が描かれた薄い化学繊維のカーテンが吊るされていた。目の前の道路を大型車が通るたびに地震のように揺れた。共同の台所で誰かが包丁を使って野菜を切っている音が廊下に響いた。
若者はこの穴倉から笹塚まで歩き新宿で乗り換えて四谷に向かう生活をまるで時計仕掛けの人形のように繰り返した。真田堀でテニスに興じる女子学生は自分とは違う生物だと思って睥睨していた。
若者は実家から通う学生が羨ましかった。思う存分食べる事の出来ないその辛さは若者には堪えたからだ。だが、実家には戻ろうとしなかった。それでも夏と冬は戻らなければならない。戻ると気持ちが弱くなった。出来れば東京には戻りたくなかった。電車が浅草に近づくにつれ気持ちを入れ替えた。鐘ヶ淵、曳舟と駅を通過するたびに若者は鎧を重ねた。
あの暑い夏は二度と来なかった。焼けつくような暑さと腐った果物の様な匂いが充満していた東京の夏。
秋になると若者の部屋の壁に貼ってあった小林麻美のポスターが剥がれおちた。テープの跡が日焼けしている。
若者の留守の間にテレビドラマの撮影で使われた部屋は整然としていた。ただ、お礼の手紙と中身が無くなってしまった空の菓子箱が置いてあった。
若者はその秋引っ越しをした。