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2011年8月9日火曜日

午後のプール

毎年バカンスにこの海岸を訪れていた男はいつものように本をたんまりとしたためプールサイドに席をとった。

今日携えた本は日本ではFLライトと同時期に活躍した、Aレーモンドの建築詳細という本と、パリのシェイクスピア&カンパニィ書店という実在した文学の伝記的書店主の本、それにイタリア料理の分厚いレシピ本だった。




数日続いている晴天が今日も空をおおい、入道雲が遠くで立ち上がっている。近くでカモメが風に乗って飛んでいく。かもめは鳶に比べて水平線の近くの低い位置を飛ぶからすぐわかる。

上昇気流をつかむのは苦手らしい。

近くではその手のひとたちとすぐ分かる黒いラッシュガードの集団がお揃いで奇声を上げて真夏のプールを楽しんでいる。ラッシュガードにうっすら見える刺青は愛嬌だ。

ごく普通の若い男の子とは何ら変らない。いつものにぎやかなプールが帰ってきたようだ。これはこれで楽しい。


男は日焼けして火照った体を鎮めるためにプールにゆっくりと入り、数回水中を掻いて顔を上げると、目の前に子供の浮き輪が風に飛ばされて見えた。

男は浮き輪をつかみ、子供の母親と思しき女性に渡した。

女性はさっきのまで早口のフランス語で子供に何か言っていたのに、驚くほど流暢な日本語で「ドウモアリガトウゴザイマス」とお礼を述べた。

彼女はここ数日間このプールでよく目にしたスタイルの良い女性だった。

真っ黒に日焼けしたプールの監視員と思しき男の子が、女性と私に向かって話し始めた。

女性の名はソフィーと言い、4才になる女の子がいた。旦那は日本人らしく今日は仕事のようだ。

彼女は如何にフランスがつまらない国で、日本のほうが良いのか訴えていた。

そんな彼女なのに娘をどこの小学校に入れるのか悩んでいた。

私にはその矛盾した行動に彼女の発したAncien régimeという言葉で理解した。

すぐにシンガポールに赴任しなければいけないらしい。

つまり日本は経由地なのだ。彼女の留まる国ではない。彼女は旅人なのだ。

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水平線に向かって2艘のヨットが進んでいる。2艘のヨットが互いに相手を意識しながら並行して曳航を描いていたと書くのか、2艘のヨットが互いに抜き抜かれつしながら曳航を描いていたのか、私には分からない。つまりは作者の利得とはこのことか。

漠然とした風景も、あそこに灯台があるとか、あそこに神社があるという「意識」によって意味を持つ。言葉とはそういうもの。

W.P.キンセラ  ソシュール記号論

私は経済学部出身ですが、文学をなぜ勉強しなかったのか30才を過ぎたころから悔やみました。

哲学や文学は人間と言う幹を太くしてくれます。経済学や法学はいわば実学です。

勉強はどうせ使わないかもしれない知識のためにあるのですから、実学もそれ以外も結局は同じこと。

そう考えると悔やまれます。

W・P・キンセラ(映画フィールドオブザドリームスのシューレスジョーでお馴染みの)「モカシン電報」という小説があります。

ここで出てくる「ギター」と「ラジオ」の差異がインディアンには認められないわけです。

ソシュールの記号論によればインディアンたちは「差異を認識していない」ということです。

つまり「差異の知覚」こそ「意味されるもの」であるからです。

これは英語のsheep、muttonとフランス語のmoutonの違いと同じということです。

日本では雨でも無数の表現があります。桜にしても「残花」と「余花」ではその視点が異なります。

つまりは我々日本人はこの差異を感じやすい神経の持ち主なのです。

我々が感じる違和感とはこのことかもしれません。

話を「モカンシン電報」に戻します。しかしながら、この小説は西欧対未開という二項対立の中に、意味を失ったものの哀れさを描いています。

こうしたものの見方がもっと若いうちに出来たなら、いっそう文学の世界にのめりこんでいたことでしょうむ。

それも幸い???

翻訳の珍本が話題になっています。言語道断です。翻訳をするとういうことは作者の変わりに異言語で作者の心の叫びを著すのですから心してかかって欲しいものです。そんな出版社や訳者は買ってはなりません。

追悼 松田直樹選手

松田選手が私と同郷と知ったのはつい最近のことです。

同市のA町の出身と言うのでご近所です。

戦力外通告をされてもサッカーの魅力から離れられず、サッカーを続けてきた根っからのサッカー人でもあります。

しかし一方で好きなことを仕事にするということの悩ましさ、難しさを感ぜずにはいられません。

私なんかその反対だったので胸をなでおろしています。

天国でもサッカーを続けてください。そう願います。

ヘミングウェイと開口 健

ヘミングウェイと開口健どちらも好きな作家だ。

省略文体が経験からくるものだということは知っていたが、ヘミングウェイが10代のときに戦争で受けた心の傷を生涯背負って、そのリハビリとして小説を書いていた。

今で言うPTSDだ。

彼は深く自省する為に小説を書き、平仄を保っていた。

ヘミングウェイが3度目の妻とアジアに向かう際に立ち寄ったワイキキでの写真がある。

体にフィットしたTシャツに足元はシャック・パーセルだ。

彼はアバクロやLLビーンを偏愛していた。

物から見る作家も面白い。

そんなことを知る一冊です。プールやビーチではパラパラと頁がめくれてお勧めです。