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2014年1月9日木曜日

犁牛のたとえ

年令に関係なく物事に対するバイアスが強い人がいる。よほどひどい仕打ちを受けたのか、はたまたトラウマとなってそうするのか分からないがこうした人はすぐに人にタグを付けたがる。

書店でも「人はみかけが九割」という表題の本が並べられる。確かに人の身なりで大体の想像はつく。しかし、あくまで大体である。現代のネットワーク社会、簡単に情報が取り出せる反面、情報の吟味をしないとその情報に踊らされる。

中国の諺に「犁牛の子」という話がある。犁牛とはまだら牛のことで、祭事には立派な角を持つ赤牛が重用されるが、この犁牛は敬遠される。同じように出生や過去のことでその人の価値をきめてしまう場合があり、それを戒めるべきだとするものだ。

しかし、分かっていても実際には人はすぐにタグを付けたがる。そうすることで自分と自分以外の者の境界線を明確にして自己防衛するためだろう。

そうした人には情報が寄せられない。情報とはいわば人である。幸も不幸もネットワークが持ってくるのではない、人が持ってくるのだ。

私は人と会っている時に電話の取り次ぎをさせない。電話には出ない。中座をしないと決めている。わざわざ時間を作って会いに来てくれる人が一番大切だからだ。

それに会って話をするということはその人を理解するのに役立つ。文章では人の書いたものを流用されたらそれまでだが、リアルな世界では通用しない。

それからゆっくり虚静恬淡に判断すればいい。