私は大して勉強もせず市内唯一の進学高に入学できた事で、自分は他の人より出来ると訳の分からない思い上がりと根拠の無い自信で暫くの間は有頂天になり、妄想と夢の中で暮らしていた。そんな思いあがりと自信は一瞬に音を立てて崩れた。
私はその夏、親に無理を言って駿河台にある予備校の夏期講習に行かせてもらった。幸い叔父が杉並で建設会社を経営しており、私ともう一人の男は叔父の家に無賃で宿泊させてもらった。今考えれば分かることなのだが、幼い子供二人を育てながら、若い職人の世話もしなければならず、地方の若者二人を居候させる余裕などないはずなのに、叔母も叔父も嫌な顔ひとつせず私たちをその夏の間中、預かってくれたのだ。
夏期講習の期間中、試験が何回か行われた。特に酷かったのは数学で目も当てられなかった。隣に座った都内の有名進学校の生徒は私の3倍以上点数をとっていた。
私は早々に理系を諦める事になった。では文系の科目はというと、英語はまあまあだったが、国語が今ひとつだった。当時の私の担任の先生は京大を卒業し高校に赴任してきたばかりの国語の先生だったが、配属早々ラグビー部の顧問も引受、クラスの誰に対しても平らな態度で接してくれ、私はその先生に密かに憧れていた。その先生が、「君たちはどのくらい名作と呼ばれている本を読んだことがあるのだろうか。もし、現国の成績を伸ばしたいなら、とにかく名作と呼ばれるものを片っ端から読んでみるといい。意味なんて解らなくてもいい。覚えていなくてもいい。読んでいたのと読んでいないのとでは雲泥の差になる」というような事を言っていたのを思い出した。普段なら、人が読みなさいとか、読んだほうがいいよというような本はへそを曲げてまず読まない。ところが、その時は羅針盤を失った動揺か、どんな風の吹き回しか本を読んでみようという気になった。
叔父の家を出て、五日市街道のバス停で中野行きのバスに乗る、曲がりくねった道でもつり革につかまり必死に文字に目を追った。結果、ひと夏で四十冊、名作と言われる本を読み終えた。
その最初の本が夏目漱石の「雁」だった。何故その本にしたのかというと、当時、フォークソング全盛の頃で「無縁坂」という曲がヒットしていたからだ。無縁坂が何処にあるのかも知らない田舎の高校生は明治の時代にその無縁坂を舞台にした小說があるということだけで、興味を抱いたのだ。
この小説は2回ほど映画になったようだ。残念ながら二つとも見ていない。最初の映画は高峰秀子さんお玉をやったようだ。2回目は若尾文子さん。いずれも、薄幸なお玉には綺羅びやか過ぎる気がする。
大人になってからの話だが郷土史を研究している人から東京近郊の地形図を見せてもらったことがある。それによると丁度この辺り本郷台地の東端にあたるところで不忍通りに向かって坂が多かった。根津に行けば同様な地形で団子坂もある。こちらは蕎麦通では有名な藪そばの発祥の地でもある。そんな地形ゆえ坂はいくつもある、その一つが無縁坂である。
無縁坂から不忍池を見渡すと今でも雁の姿が見られる。残念ながら目の前には中華料理店の建物工事が進められており数年経つと明治の頃よりのその景色が見られなくなってしまうかもしれない。無縁坂の登り切ったところに鉄門がある。江戸時代の種痘所があった頃からここに門があったようだ。鉄門の由来は、木製の扉に鉄で打ち付け鋲で留めてあったその姿からのようであるが、今はすらんとした涼しい現代風の門に変わっている。
あの夏、御茶ノ水からここまで歩いた記憶がある。無縁坂にはその当時でも小說に出てくるような木造のしもた屋はほとんど見かけなかった。当時、坂沿いに数件のマンションが建設中だった。お玉が窓越しから岡田を見ていたあの情景は見られるはずもなかったが、それ以上にここに行こうと誘った男から、行っても意味が無いと言われたことに心が折れた。もちろん、私は東大を受験する気も能力も無かったが、その男の夢のない考えにショックを受けていたのだろう。帰り道で立ち寄った御茶ノ水の画翆「檸檬」のアイスコーヒーの苦かったことを覚えている。その「無縁坂」に四十年後に息子が住むことになるとは。人生というものは本当に面白い。