このブログを検索

2010年7月2日金曜日

仙台四朗


先日、野毛の焼き鳥の名店「若竹」連れて行ってもらったときに、実際の「仙台四朗」の写真が飾ってありました。

東北ではこの人の人形を飾ってあるお店はありましたが、パネル入りの写真は初めてです。

生き神様の本名は芳賀四朗という実在した人物です。7歳の頃、広瀬川に落ちて生死をさまよいそのせいで知能発達が遅れたと言われていますが、決して人に危害を掛けるわけでなく、嫌がられたお店には決して行かなかったといわれています。この四朗の立ち寄る店は必ず繁盛したと言われています。



「若竹」のオーナーも東北の出身なのかもしれません。間違いない!!

小さなころ一緒に遊んだ「ター坊」に似ています・・・・

藤原保信著作集

コーヒーを飲みに立ち寄ってくれた友人O氏が朝採れた野菜を差し入れしてくれました。夏野菜のフルーツトマトが甘そうです。サンキュー!!



ところでコミュニタリアンで忘れてはならない人がいます。早稲田政経の三羽ガラスの一人、藤原保信氏です。氏の著作集はリベラルコミュニタリアンらしく環境や政治の事を論じています。

コミュニタリズムもいくつかの潮流があり、右左様々です。この政治哲学の復権も読み返すことにします。

三羽ガラスの残り、内田満氏鴨武彦氏も藤原氏と同じく既に他界されていますが、この鴨氏は当時、タカ派、ハト派のもうひとつとして鴨派なんていわれていたのですよ。

早稲田政経の輝かしい時代を築いた人たちです。 

Puro bono pablico プロボノ  

ラテン語の「公共善」今これが流行っているらしい。

企業をあげてこの活動に参加しているところもあると聞く。

その中の一人が「仕事に達成感が見いだせず悩んでいた。この活動をするようになってから充実感が」と・・・・・・??????

いやー日本の大企業というものは余裕があるんだなー。正直な感想。

私は仕事そのものが公共善だと思っているから、彼らの考えは理解しえない。

そもそも仕事もプライベートもくそくらえだと考えている。誰だって真剣に一所懸命ならば時間も忘れるし、そんなことは言ってられないはずだ。でも多くは違う、プライベートでは居酒屋で上司の悪口を言い、仕事は中途半端。格差社会も仕方ないと思ってしまう。

毎日のその人の判断こそが大きく将来を変えるのに、それじゃ答えは出ています。

まだ30代そこそこのひよっこが何を壁に当たったなんてほざいているのか、全く理解できないのである。1回で登れなければ違うルートを使ったり、技術を磨くことが先決でしょ。その後ですよ、休憩するのは、私には休憩にしか思えませんよ!!!!

今の社会に潜む、停滞はこのあたりが問題なのかも・・・・・・・・

原っぱ、空き地と芝生

今日の内田先生のブログに良い言葉使われていた。

ー一部抜粋ー
その「原っぱ」は、その言葉が連想させるような手触りの優しいものではなく、ガラスの破片や焼け焦げたセメントの土台や陥没したタイル張りの地下室を雑草が無遠慮に覆っているだけの場所だった。・・・・・・・



数年前ある大学の都市計画セミナーの席で、とあるゼネコンの都市計画立案者が、自然融和が図られるような芝生の広場について私に意見を求めてきたので、私は「芝生の広場なんてやめて、土管やタイヤの転がっているような原っぱを作ったらいかがか」と提案してみた。

もちろん担当者は目を丸くしてとんでもないという風だったのであるが・・・・・

私が言いたかったのは、「芝生」に代表されるような管理された広場と、空き地、原っぱは根本的に違う。まあ都心では空き地というのも中々お目にはかかれないしろものではこあるが・・・・

先生の言うように、どこかざらざらした、廃墟のむなしさと危険を併せ持つ空間というのが無くなってしまっているからだ。

そういったところで遊んでいた子供達は足に釘がささっても、土管が崩れ落ち怪我をしても、自己責任だった。その自己責任こそ現代に不足している経験なのだと思っている。

化学反応でカレー粉のようになった得体の知れない物質をつぶしてはカレー粉だと言って遊んでいたあの物質はなんだったんだろう。

若者が、などいいうつもりはない、そうやって子供を教育しているのは大人、だから大人の責任なのだ・・・・・・・・・・・

経年経過 頸椎管狭窄 尺骨神経

誰でも加齢による体の経年経過によるガタは出るものです。長く使えば故障も出てくるものです。

ゴルフの最中、突然クラブを握る手に力が入らなくなったときには驚きましたが、その原因が脳ドッグで、頸椎管狭窄が原因であり、具体的治療方法がないことも分かったので、これも仕方ないと諦めていました。

日常は別に不自由しないのですが、ぞうきんを絞ったり、左手に力を入れる際にはちと困ります。

尺骨神経というのがその頸椎より出ていて、丁度反対側(つまり左)に走っている神経にあたるそうです。確かに筋肉がつった感覚になり、手が鍵状になって痙攣することもあるので力を入れる作業は困難を極めます。

まあ同じ症状だった人が数年して症状が出なくなったという話も聞いたので、ボチボチ考えながら生活することにします。経年経過には勝てません・・・・・・・・・


スウェーデンと日本の税率の違い マスコミ考

テレビを見ていたら日本の消費税増税論議として、北欧の高福祉国家スウェーデンの税率と社会保障を取り上げていた。

数字を並べて各々の税率の違いを際立たせていた。しかし肝心の説明はなし。

前々からマスコミのこういった統計的思考には疑問を感じている。

まず日本と他国の税金の歴史的流れや、国民性(ヨーロッパの人は受け取るのが当たり前と思う人が多い、一方、日本は税金は取られる)の基本は説明していたがもう一歩踏み込んでいない。

さらに統計を揶揄した言葉に"There are three kinds of lies: lies, damned lies, and statistics"(「世の中には3つの嘘がある。一つは嘘、次に大嘘。そして統計である」)がある。

これは英国、ヴィクトリア朝時代の首相でもあり、小説家として名を上げ、政治家となった。ベンジャミン・ディズレーリ(Benjamin Disraeli)の言葉です。

私達の思考には細かな差異を平準化して、より簡単に説明しようとする傾向があります。理論経済学などはまさにこの罪を犯しているものが多いのものです。

今読んでいるこの本には「初期的ゆらぎ」が、いかに大きな違いを生み出すのかということが分かりやすく書いてあります。この初期的ゆらぎのことを「バタフライ効果」と呼びます。そう日本では風が吹けば桶屋がもうかるという例えがあります。しかしながら単純化したい我々の脳は無数のこのバタフライがゆらいでいることを無視して結論付けようとしているようです。





閑話休題

「最小不幸社会」と首相が言っているが、私には自民党の2世議員でCMに応援演説にひっぱりだこのK氏が言っている「最大幸福社会」と変わらないと感じている。リバタリアンの思想は徹底した個人自由の社会である。税金さえ支払いたくない。フリードマンやハイエクを読めばすぐ理解できる。一方、富の再分配を肯定するリベラリストはこの対極にある。

この2つの主張はいずれも完全なる実現は不可能なことで共通する。

2つの党の根底にあるものは大して変わらないことを意味しているように思える。今の日本には政治評論家、経済学博士がやたらと多い、やらなければならないのは実経済の底上げと政治である。