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2010年9月6日月曜日

ゆたかさとは

コピーライターの糸井重里さんのHPには

「いつか無くなるものを求めちゃいかんのだよ。



無くなるものは、求めるためではなく、


そいつで遊ぶために、この世にあるんだからな」


(『セフティ・マッチの金の言葉』より)

という言葉が載っています。私も同感です。人は生まれながらに死に向かって歩み始めます。明日やろう、いつかやろうではなく、今なんです。私の人生観とかぶります。

一方、今日もとても良い言葉が載っていました。前々から「ゆたかさ」とはなんだろうと考えていた私に金言です。糸井氏は豊かさとは「水を満々にたたえた湖のようなものだ」と形容しています。

決して水が枯れないという安心感、多くの生命をはぐくんでいる湖、静かな湖面が物語っていると言う訳です。

私のような仕事をしているとこの「ゆたかさ」を履き違えている人を往々にして目にします。家や土地といった資産にかじりついて、どう生きるかではなく、何があるか物を尺度として捉えている人。お金を貯めることのみに執着して、結局何もせず老衰していく人。逆にお金を使うことのみに執着している人など様々です。

でも誰一人としてこういう人たちに「ゆたか」だと感じる人はいません。

「ゆたかさ」は結局どう生きているか、どう生きていたかということであり、安心感はそういった経験をしたことによって人にもちらされるものであり、静かな湖面は幾度となく嵐を経験しそれでもすっと静まり返る湖の度量の深さということになります。

そう考える今日偶然出会えた人との縁をまた大切にしていかなければならないと嬉しく思えるのです。

生命の意味 多田富雄氏 エミール・ウングワレー


この著作は大佛次郎賞をとった「免疫の意味論」の続編として執筆されたもので、とても分かりやすい簡潔な文章で生命にかかわる現象を説明しています。

その中で、「生命とは自己と他とを区別するシステム」だと説明されていました。なるほど免疫のパイオニアだけあってその説明には説得力があります。

数年前、新国立で開催されたアボリジニの画家「エミール・ウングワレー展」で彼女の死の数時間前に書いたと言う絵を見た時、まさに死とはぼんやりと混ざりあっていくことのようだと思ったのと共通します。

どうりで混沌=chaosが好みのようです(笑)TOYOキッチンの選んだ扉も確かカオスと命名されていました・・・・・・・・・・

あっそれは関係ない!!!失礼いたしました!!

AFFONSINHO

8月に鎌倉の「CALORO」で購入した3枚のCDの中で特にこのAFFONSINHOがお気に入りです。



どこか透明感のある歌声とボッサのリズムがとても心地よい音楽です。

マウイのビーチで午後の陽ざしの中でも抜群の気持ちよさでした。

このアルバムは確か2006年のもので、昨年のアルバムがこれまた良いので購入しようとしたら届くまでにひと月近くかかるようです。CDも増えすぎて収納に難儀している訳なので、I tuneでダウンロード購入しました。

と言う訳でこの「MEU PLANO」はすでに晩夏のプレイリストに入りました。



RETROSPECTIVE MODERN

妻は鎌倉ベースの食器や収納に凝っているのでストレージは彼女に任せましょう。

私は小さなPCデスクと椅子を探しました。テーマはRETRO MODERNです。アンティークといってもヨーロッパ風のデコラティブなものは嫌いです。ミッドセンチュリーと言えばイームズやハーマンミラーが有名ですが、イームズのシェルチェアーはレプリカが多く、かといって本物は50万円近くします。予算外です。

本物でしかも軽やかでありながら、マニッシュなものを探しました。灯台もとくらしとはこのことです。恵比寿のそれも管理しているビルの斜め前にその椅子はありました。今日引き取りに行く予定です。50年代のWIRED MESH SIDE CHAIRです。ギャラリー1950というお店です。



一方、デスクは中々丁度よいものがなく、アメリカの学校の机にしようかと思ったのですが、横幅がせまく旨く行きません。そんな中で古材や流木でデスクを作っている人がいて、これが中々良いのです。大きさも、その古材の具合、足元の鉄の補強など思っている以上にマッチしました。お店は流木専門店 海の木というところです。





今週のどこかで厚木にあるアンティークや古材の店舗兼倉庫に行ってみます。少なくともブックシェルフはこうした古材か鉄で作りたいと思っています。

メイちゃん安らかに


今日の朝日です。ビルの谷間から上がってきました。

K家の15歳のGRメイちゃんが昨晩息をひきとったそうです。

お転婆で天真爛漫、歳をとってもおちゃめな可愛いおばあさん犬だったメイはK家にいっぱいいっぱいの幸せを運んでいました。そういっぱいいっぱいのです。


折しも多田富雄氏の随筆「独酌余滴」の中で、死ぬ運命だった実験用のビーグル犬を貰い受けてイプシロンと命名し、可愛がっておられたのに事故で失ってしまった時の悲しみをつづっておられた物を読み涙腺が緩んでいたところにこの知らせです。

しかし私なんぞより飼い主にとっての悲しみは想像できないものです。

息子さんはW大学の野球部の寮に居ます。もう家についたでしょうか。娘さんは結婚したばかりでオーストラリアに居ます、すぐには戻れないでしょう。ご主人はあと何日か北海道の出張のようです。みんなメイに会いたいにきまっています。そのもどかしさと一人でメイを見取ったママの悲しみは深いはずです。

メイはもうこの朝日は見られないのですね。そう考えると生きている全てのものが愛おしく思えます。

でもメイ本人はきっと虹の橋の向こうで大好きだったスコッチや、うちのジーニー、ボクちゃんと走りまわっているいることでしょう。

ありがとうメイ!!サンキューね!!!一杯一杯の幸せをくれて・・・・・・