この夏、逗子に逗留している間に、「死生学」の本を数冊読みました。この分野に興味を持つようになったのは自分が死ぬかもしれないという体験と友人や先輩の死を目の当たりにして、そしてアルフォンス・ディーケン先生の「死の哲学」を読み「死」を考えるようになった訳です。
日本における「死」は一般的には特別なものであり、私たちの生活とは切り離されています。つまり死と生は別々なものなのです。この考えは古くからあり、平安時代にも人が死ぬことを忌み嫌い、鴨川に流したようです。川はあの世とこの世の結界でもあったわけです。現在でもお葬式のときに「忌中」とするのはこのためです。
一方、昨日のゴーギャンの絵画にしても、メキシコの絵画にしても、死はごくありふれた日常の中に存在します。死はゴロゴロしているのです。未開のジャングルでの人の寿命は短いです。昨日、元気だった子供も今日死んでいるかもしれないのです。つまり、生と死は隣り合わせなのです。ゴーギャンの愛娘が19歳で突然死したことも影響したのかもしれません。
まさに「死」を学ぶことは「生」を学ぶことであり、生きるうえで一途の光明となりえるのです。
しかしながら人間は生に執着します。末期の病状であっても、どこかしら生を希求します。それを受け入れることの難しさを感じます。
「我々はどこから来て 何者か 我々はどこへ向かうのか」ゴーギャンならずとも死生観について考えさせられるこの頃です。
「死生学」とは直接の関係はありませんが、一方でこの「生」である物質の存在を究極に論理的に考察しようとすると、私の場合、分子細胞学と量子力学に行き着いてしまう感じがします。
特に量子力学では物質の構成要素つまり宇宙の成り立ちを探ることになり、究極には私たちの中身を探ることにもなります。対称性の破れ、カラビヤウ多面体、反物質、スーパーストリングス理論とこの分野の興味はつきません。
NASAが宇宙でアミノ酸の一種を発見したというニュースがありました。神の設計図の解明になるかもしれません。秋の夜長また本でも購入して読んでみます。