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2009年8月27日木曜日

先物の読み返し


足の付け根の治療を終え、自宅です。天気が良いので読み返したい本を数冊携えデッキで読書です。
仇をとったかのような心地よい気持ちを覚えるはこんなときです。
この本が発刊されたので2002年です。7年の歳月はいやおうがにも現実をつきつめます。
しかし、時代が先に進んでいます。改革の障壁の拡大は既に始まり、挙句の果ての体たらくを国民が見ています。
でも意外と表の裏の裏は表のようになるのかもしれません。日本の行く末・・・・・・・・心配です。

エドワード・ケネディ氏死去


エドワード・ケネディ上院議員が死去されました。享年77歳です。ご冥福お祈りします。


ここでケネディ家を簡単におさらいしましょう。ケネディ家はアイルランド系アメリカ人です。

彼はジョセフ・パトリック・ケネディの四男です。次男はダラスで非望な死をとげたアメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディです。


ジョセフ・パトリック・ケネディの父(つまりエドワードからする父方の祖父)はパトリック・J・ケネディです。そしてその親の代が移民としてアメリカにわたった人達なのです。
最初にアメリカに足を入れてから、エドワードやJKは4代目にあたる訳です。こうみるとアメリカの政治は父方の系譜を継ぐことが多いようです。日本は意外と母方の系譜も関係します。今度よく調べてみましょう。


豊かなもの


いくら物やお金があっても「豊か」にはなれません。
Dr.Fの奥様であるY子さんに教えてもらった名物ブログ「ばーーさんがじーさんにつくる食卓」は以前にもご紹介しましたが、きっとこの人達のような人が「豊か」なのだと思います。
新しいものも受け入れ、絶えずチャレンジし、身近な自然の営みに感謝し、そして驚く、豊かさとはこういうことなのかなとつくづく感心させられます。
我が家には常備食「ドンコ」があります。そして昨日茶碗蒸しに使った蒸籠もあります。おおきな白身もあります。早速フードプロセッサーで作ってみました。美味しいです。家でとれた茗荷と大葉を上に散らしました。

人間や動物すべてのまわりのものに優しくなるためには、この「豊かさ」が必要なんでしょうね!
小じーじこと私めも精進します。

死生学 死生観




この夏、逗子に逗留している間に、「死生学」の本を数冊読みました。この分野に興味を持つようになったのは自分が死ぬかもしれないという体験と友人や先輩の死を目の当たりにして、そしてアルフォンス・ディーケン先生の「死の哲学」を読み「死」を考えるようになった訳です。

日本における「死」は一般的には特別なものであり、私たちの生活とは切り離されています。つまり死と生は別々なものなのです。この考えは古くからあり、平安時代にも人が死ぬことを忌み嫌い、鴨川に流したようです。川はあの世とこの世の結界でもあったわけです。現在でもお葬式のときに「忌中」とするのはこのためです。

一方、昨日のゴーギャンの絵画にしても、メキシコの絵画にしても、死はごくありふれた日常の中に存在します。死はゴロゴロしているのです。未開のジャングルでの人の寿命は短いです。昨日、元気だった子供も今日死んでいるかもしれないのです。つまり、生と死は隣り合わせなのです。ゴーギャンの愛娘が19歳で突然死したことも影響したのかもしれません。

まさに「死」を学ぶことは「生」を学ぶことであり、生きるうえで一途の光明となりえるのです。

しかしながら人間は生に執着します。末期の病状であっても、どこかしら生を希求します。それを受け入れることの難しさを感じます。

「我々はどこから来て 何者か  我々はどこへ向かうのか」ゴーギャンならずとも死生観について考えさせられるこの頃です。
「死生学」とは直接の関係はありませんが、一方でこの「生」である物質の存在を究極に論理的に考察しようとすると、私の場合、分子細胞学量子力学に行き着いてしまう感じがします。
特に量子力学では物質の構成要素つまり宇宙の成り立ちを探ることになり、究極には私たちの中身を探ることにもなります。対称性の破れ、カラビヤウ多面体、反物質、スーパーストリングス理論とこの分野の興味はつきません。
NASAが宇宙でアミノ酸の一種を発見したというニュースがありました。神の設計図の解明になるかもしれません。秋の夜長また本でも購入して読んでみます。