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2013年1月8日火曜日

鯖の文化干し定食 小坪 魚佐次


鯖の文化干し定食 小坪 魚佐次

ここのお店を紹介してくれたのは小坪で黒ラブのヘンリーを飼っていたU氏である。だからこの店はジーニーとヘンリーが惹き合せてくれた事になる。今は亡きジーニーとヘンリーに感謝。

U氏は私よりずっと年上だがここ小坪では古くからの人である。近くに同名の家があるので親戚であろうと推測される。そしてU氏の本業は地主業である。こんな職業があるかどうかは別として親から受け継いだ不動産を上手く活用して生活の糧としている職業である。

私の知る限り生粋の地主というのは本来、贅沢ではない。堅実な生活をしないと中々続かないからだ。誘惑も多いだろう、だから必然的に人を見る目が肥えてくる。これは多くの真っ当な地主に共通する。

私達が小坪に通うようになったのは丁度今から20年前である。子供達も幼かった。飯島公園に行くと多くの愛犬家が集まっていた。私達もそんな仲間に加わることが出来たのも本当に犬のお陰である。

私達はそれまで角の魚屋で魚介を買うことが多かった。この辺りの別荘族が多く利用している店だった。私達が魚を物色しているとヘンリーの父上が目配せするのである。
よく見てみると小坪産と手書きで書かれた発泡スチロールの箱に焼津漁協と書かれている。

 それ以来、ここではあまり買わなくなった。替わりに魚佐次に行くようになった。お刺身の類は例にもれず、アジフライ、カマスフライ、とんかつと揚げものも大変美味しい。そして鯖の文化干しは絶品である。
 はっきりいって湘南にもM鯖なるブランド鯖が存在するが、こちらの鯖は負けてはいない。香ばしく焼かれた鯖はふっくらとしていて脂がのっている、醤油を垂らすとさっと引いてしまうような焼き加減抜群の鯖は最高である。

私は歳を取ったのでご飯を少なめにしてもらっている。その代わり、クリームコロッケをひとつ追加で注文する。とにかくこの店の料理は何を食べても美味しい。ただし、夜の部はないので昼に行くか、予め注文しておく必要がある。今年息子たちが20名近く我が庵で合宿した際にも、ここのお弁当が活躍したそうである。彼らの予算は一食千円である。その中で彼らを満足させたこの店の実力は相当なものである。あなたがもし運良ければマグロの切り落としやあん肝を購入することが出来るかもしれない。それでつくるヅケは言うまでもなくほっぺたが落っこちる程美味である。魚が食べたくなったら迷わず魚佐次に向かう。私のGPSは間違わないのである。





うなぎクライシス2


うなぎクライシス2

 私の育った街は川に囲まれていた。家のすぐ裏手には渡良瀬川が流れていた。当時は悪名高い足尾の鉱毒こそ流されなくなったものの、様々な生活排水が流れ込み綺麗ではなかった。魚といえばハヤ(私達はそう呼んでいた=ウグイ 鯎)や毒魚のギギなどしかいなかった。それでも少し足を延ばし支流に行けば山女や岩魚をとることもできた。
両親の友人一家が引っ越していった郊外の住宅地にも小さな川が流れていた。その川にはイモリやうなぎがいた。うなぎといってもお腹に斑点がある八つ目うなぎである。この八つ目うなぎを獲る時に使う魚篭(びく)は入口に返しがあり、魚が逃げない工夫がなされていて、その一番奥に石で潰したタニシを布に包んで入れていた。一晩経ってその魚篭を上げてみるとまんまとうなぎや川ガニが入っているという訳である。私はこの八つ目うなぎを一度も食した事がないし、たぶんこれからも食すことはないと思う。生活に近すぎた食材というのはこんなものである。
話は変わるがうなぎの卵が遠く北マリアナ海溝で見つかったとテレビで放映されていた。うなぎは稚魚(シラスウナギ)を河口で捕り、これを養殖させるわけであるが、うなぎの生態は未だ詳しくは解明されていない様子である。また近年、天然の稚魚が激減しているという。稚魚の値段がうなぎ昇りだと。うなぎが食べられなくなったら困るので研究の一早い実用化を望むところだ。
私が幼いころ、本当に偶にであるが、両親がうなぎを食べに近くの店に連れて行ってくれた。その店は家からそう遠くない(当時の私にはとても遠く感じたが)ところにあった。群青色の暖簾に白抜きで「うなぎ」と書かれていたその店のうなぎは本当に旨かった。
うなぎが好きな人と嫌いな人が分かれると言う。あの姿が苦手だと言う人もいれば、美味しいうなぎを食べたことが無いという人もいる。直木賞をとった四国出身の男性作家は後者で大人になって初めて美味しいうなぎを食して好きになったと本に書いてあったが、私の場合は少し違う、つまり原体験は美味しかったのだ。子供にうなぎの味が分かるはずもないと叱責されそうだが、あのうなぎは確かに美味しかったのだ。
上京してうなぎを食す機会が無かったわけではない。しかしながら貧乏学生、薄給のサラリーマンの食べられるそれはどれも身は硬く骨っぽく、表面には水飴の様なベットリしたものが付いていた。かくして私は暫くうなぎからは遠ざかることになったのである。
関西は腹開き、関東は背開きという。私にはどうでもよい。それより、うなぎを蒸すか蒸さないかは重要であった(過去形)
私はつい最近まで関東風の蒸した柔らかい鰻が好きだと思っていた。東京で食べるうなぎの殆どがこの作り方であるからだ。ところがある御仁からそれは関西風の美味しいうなぎを食べた事がないからだと指摘された。味のわかるその御仁のご高説もっともである。ならばと、娘の住む岡崎に向かい駅至近の「はせべ」という店で食した。待つこと30分、運ばれた白焼きと鰻重を食べた瞬間、私の浅はかさを恥じたのである。旨い。外はパリッとしていて中はふっくら、タレも甘すぎること無く、完全に私の想像を超える旨さである。。それ以来、蒸す、蒸さないで判断することはしないことにした。
関西と関東の違いは何からくるのであろうか。色々な本で調べてみると、うなぎそのものが一番の理由だったようである。例えば産卵のために川を下るうなぎと上るうなぎではその肉身は違うであろうし、四万十川のうなぎと利根川のうなぎでは違う。そこで背開きや腹開き、蒸さないうなぎ、蒸すうなぎと調理方が別れたようである。地産地消が一番ということらしい。
しかしながら、江戸前の蒸すうなぎが嫌いになった訳ではない。それはそれで美味しい店がある。東京もさることながら鎌倉の由比ガ浜通りにある「つるや」、辻堂の分かりにくい住宅街にある「うな平」は三指に入る旨さだ。特に「うな平」の肝吸いは素晴らしい。
豊橋に「丸よ」という店がある。豊橋はどうやら関東風と関西風の境界らしい。この店のうなぎは特別に美味しいということから別品=別嬪、べっぴんと呼ばれ、時代と共に意味が拡大し美しい女性を別嬪と呼ぶようになったと聞くが、なんともうなぎが転じたとは面白い。ここのうなぎは裏返して並べられる。何でもそのほうがタレがしっかりと掛かっていると見えるということらしいが、やはり見た目も大切、私はこれには賛同いたしかねる。
一度だけ海外でうなぎを食べたことがある。日本式のうな重である。食べたのは高級ブティックが立ち並ぶパリのサントノーレ通り。お昼時を過ぎたそのお店は比較的空いていて私たち以外に数組の客がいただけだった。東麻布に本店があるその店はガイドブックに載っている有名店である。日本と同じように三十分以上待って恭しく運ばれてきたうなぎを食して愕然とした。まるでゴムのようである。噛み切れない。たれやご飯は普通に美味しいのにうなぎが全然違う。あたりを見回すと、金髪を肩のあたりまで伸ばして指には数カラットもあろうかと思う宝石を身に付けた日焼けしたマダムが何も言わず美味しそうに食していた。あとで分かったことなのだが、どうも欧州のうなぎは日本の物とは種類が違うらしい。
うなぎには綺麗な水が必要といわれる。うなぎの臭みを抜くために一、二日その綺麗な水の中で活かしておくことが必要らしい。老舗のうなぎ屋には必ず井戸があってその水が大切な役目を果たすようだ。三島は富士の伏流水が市内至る所に流れていてこの水を利用してうなぎ屋が多いことでも有名である。偶然にも銀座からこの三島に終家(居だけでなく事務所も)を移した弁護士の先生がいることもあり、三島に出掛けることがある。というよりこのうなぎを目当てに仕事を無理やりつくっていると勘繰られそうであるが、私は三島広小路の「桜屋」が好きである。ここのうなぎはふっくらしている。そして臭みが例によって綺麗に消されている。店の裏手を覗くとこれから調理されようとしているうなぎが水色のプラスチックの大きな籠の中で元気に動いている。それを若い職人が数匹選んで調理場に持っていく。
世の中に天然もの礼賛の流れがあるが、私はこれに異を唱えたい。既出の東麻布の店でもまた横浜の某店でも天然うなぎを提供するが、恐ろしく値段が高い割上に脂が無かったり硬かったりとバラつきが多い。
渋谷に「うな鐡」という店がある。今は区画整理され綺麗になってしまったが、井の頭線の出入り口に程近い大衆店である。私の様な薄給のサラリーマンでも何とか食べられる店だった。この店はうなぎを水に付けて焼く、それによって無駄な脂が程良く落ちて、よく蒸したうなぎに近い味の物を提供する。千円で食べられるうな丼、今はどうなっているのだろう。
うなぎ懐石なる店がある。フランスのタイヤメーカーのランキング本にはこの手の店が星を付けて載っているが私に言わせればうなぎはうなぎである。邪道以外の何物でもない。
数十年前に私の車の師匠でもある翁に帝釈天の参道にある「川千家」に連れて行ってもらった。焼き方、蒸し方、タレ全てが私の好みだった。一辺で好きになった。小一時間待たされるのはご愛敬である。
老舗のうなぎ屋の中には予約の中々取れない店もある。浅草にある店もそうである。予約が取れないのは仕方ないにしても、あの無愛想な電話の応対は如何なものであろうか。人柄の良いご主人が焼くうなぎは辛口でさっぱりしていると、かの作家も書いていたのに残念である。神田明神下にある店も食わしてやるという気持ちが見え見えである。ごめん被りたい。
本店は神田にある「菊川」も好きである。近いので用賀の店に行くことが多いが、この店は最初から「うちは味の不安定な天然ではなく吟味した養殖物を使う」と明言している潔さも良しとしたい。特にお薦めは白焼き。
あーあ、お腹が空いてきたまだ九時だ。今日は墨田区に行く所用がある。帝釈天も程近い、よしと思う横から今日は時間がないと言われた。言われれば言われるほど食べたい。それがうなぎである。曼の意味を持つ、「つやつやのふっくらしたうなぎ」こそ「うなぎ」=鰻なのである。
最後に私が幼かった頃食べていたうなぎは「蒸さないうなぎ」だったことを補記したい。


2015年9月改訂












雲呑麵 ワンタンメン 池尻大橋 八雲 浜田山 タンタン亭


雲呑麺 ワンタンメン 池尻大橋 八雲 浜田山 たんたん亭

私は学生の頃、井の頭線の浜田山駅近い場所に住んでいたことがある。当時、私は叔母が勤めていた某企業のグラウンドでアルバイトをしていた。家から自転車で5.6分だった。グラウンドは広大な敷地の中に広葉樹林を擁していて、当時でもクワガタやカブトムシが都内のこの場所で捕れること自体珍しかった。

私のアルバイトはテニスコートやグラウンドの整備の手伝いだった。もっともプールで監視員のアルバイトもあったが、一度その取りまとめ役と思しき男性から説明を受けたことがあるが、アルバイトの中でも学閥のような順位性をもった形式的な硬直した魅力のない考えに辟易して、そちらには近づくことはなかった。

アルバイトの中身は肉体労働である。最初のうちは家に帰ってくるとどっと疲れが出て倒れ込んでいたが、慣れてくると中々面白い。働いている人は皆中年を過ぎた人達ばかりで、よくよく彼らの働き方を見ると、メリハリを付けているのだ。つまり要領よく休むのである。そしてこのアルバイトのさらに良かったことは他人と話をしなくて済むことだった。この頃の私は体裁の好い会話は心底御免被りたかったからだ。

夜は近くの中学生の家庭教師をしていた。今でもその子には申し訳ないと思うが、いくら熱心な親であっても本人にその自覚がなければ勉強は身に付かないと最初に会った時に感じた。しかし、割のいいアルバイトだったのでそのことは口外しなかった。心のどこかでそんな事を感じていたので、教育実習や教職必須課目に忙しいと弁解して、早い時期にそのアルバイトを辞めたのがせめてもの良心の呵責かもしれないと今は思う。

この頃の私は幾分経済的には上向きになっていた。とはいえ一日千円の生活から千二百円に格上げされたようなものだった。

時折、駅の近くにあるたんたん亭に行った。いつも頼むのは決まってワンタン麺である。私は幼き頃から雲呑を「うどん」と読む変な癖がある。良く考えればワンタンとなるのだが、咄嗟にその文字を見ると「うどん」と発音してしまう。パブロフの犬宜しく条件反射のなせる技なのだ。吉田戦車の4コマ漫画に喫茶店に入って「うどんください」というあれと同じである。私はたんたん亭に入って「うどんください」と言った。いや言ったと思う。しかしながら出てきたのは正真正銘のワンタン麺だった。それ以来、暖簾をくぐる前に「ワンタン、ワンタン」と心の中で連呼して入っていくことにしている。

たんたん亭のスープは魚介系のあっさりしたスープである。ここで修業した人があちこちで独立しているので一度はこのタンタン亭流のラーメンやワンタン麺を食した人が多いのではないかと思う。かくいう私の事務所の近く(ちょうど池尻大橋と中目黒の中間地点あたり)にも八雲というこれまたたんたん亭出身の店がある。以前は隣のガソリンスタンドで洗車してもらっている間にここで食すことが多かったが、今やガソリンスタンドはなくなり、この頃は中々行けない。雲呑に八雲、中々ややこしくなってきた。

このところブログに写真がアップ出来ない。あとでアップします??

picasa webならアップ出来る??なぜ??