オーセンティック(真正性)について
この頃この言葉を気にする。ネットワーク社会が広がり始めて個と個の結びつきは脆弱になった。その代わり仮想空間でやりとりされる情報は増え、情報の受け手としてその真贋を見極める目が必要になった。当然嘘は排除される。帰結として正しいものだけが残る。
私が初めて目黒通りにインテリアショップを導入しようとした時に、とある家主がそれは無理だと言った。あれから20年、その手の店が林立し今ではマーケットで言う回周り性が向上した。私が先見の目があったとは思わない。あの時、ただマーケットの声に耳を傾けただけなのだ。私も昔は企業にいた。企業は利潤追求が目的だ。その結果効率性が求められる。ショッピングセンターのような箱の中でも同様だった。ところがそうでないものもあらわれる。渋谷の雑貨を集めたSCを作る時、店子に言われた。そちらは3.4年で古くなるとお考えのようですが、私達は10年いやずっと愛される店を作るのです。そういって普通の倍の厚さのコンクリートで床を作った。それはサザビーだった。
先月、ロスアンゼルスに行った。シルバーレイクにあるFORAGEというレストランに行った。何の変哲もない白い平らな建物だった。季節外れの寒さの中、コートの襟を立てながら多くの人がシンプルなプレートランチを食べていた。野菜は裏庭でとれるようだ。
鉄道ファンから聞いたのだが、鹿児島空港からほど近いか嘉例川という無人駅が話題らしい。なんでも個数限定で売られる駅弁が人気でほとんど乗降客のいなかった駅に休日には200人を超すファンが詰めかける。売られている駅弁は特別に贅沢な材料が入っている訳でもない。ただ、全てが安心できる手作りの本物だ。
これだけ聞くと本物なら何でもよいのかと思うかもしれないが、そこにはネットワーク時代だからこその妙薬が隠されている。つまり、それらを真正な情報としてマーケットに伝えるとうことだ。
知り合いに素晴らしい椎茸を作っている農家がいる。どう見ても手間を掛け、他のものより美味しいのに市場では評価されないと嘆いていた。当たり前である、市場では作り手の個人的な情報は割愛されてしまう。需要と供給による価格メカニズムが優先されるからだ。
必要なのはその椎茸にどれだけ手間が掛り、美味しいのかと言う個の情報発信なのだ。
街づくりにも同じ事が言える。私の居る中目黒は幸いな事に大資本にいまだ食い物にされていない。隣の代官山や恵比寿を観る限り、こうしたマーケットのオーセンティク性を欠いた開発は街を活性化しない。中目黒は小さな商店主が駅から胞子の手を伸ばすが如く少しずつ開発されていった。20年前と比べるとその広がりは雲泥の差である。
ニューヨークに行くと分かるが、よりニューヨークらしいものが光っている。あそこにあるイケアほど似つかわしくないものはない。恐らく日本から行く観光客でイケアに行く人はまずいないと思う。何故なら、ニューヨークらしくないから。
私は一緒に仕事をしている建築士に言う。一番カッコ悪いのは少し前に流行って廃れたもの。だから普通の物を作ってほしいと。赤プリが出来た頃、ネオパリエという新建材が盛んに使われた。いかにも大理石風と言う手合いの物。大嫌いだった。カーテンウォールがもてはやされた。さほど大きなビルでもないのによく使われた。今では漏水の温床になっている。建物はその制約から来る面白さを最大限に生かせばそれでいい。そして化粧は出来る限り薄く。もっとも蜑戸を良しとする私だから経済的制約も大きい。これが結果、オーセンティックになる。
おそらくオーセンティクというのは座り心地のよい代物だと思う。邪魔にならず、周囲にすっと溶け込んで違和感のないそんな真正性。偉大なる商店を目指す当方としては無視する訳にはいかないのだ。