演奏者と聴衆
昨晩、キース・ジャレットのソロコンサートに出掛けた。ご存知のかたも多いかと思うが、この最終公演の前の大阪でのコンサートでキースは演奏を中断してしまったようだ。その場に居合わせていないのでどのようなことが起こったのか定かではないが、耳障りな何かの雑音が聞こえたのかもしれない。
私も行く前までは、そんな小さなことで目くじらを立てるのは、敷居の高い寿司屋のようで客=聴衆をないがしろにしているのではないかと些か諦めていた。
ところが実際に自分が行ってみると、その浅はかな考え大いに反省した。何故ならここ数年のコンサートでこれだけ感動したものはないからだ。
最初の曲が始まった時に、あまりの硬質な音が私の体を突き抜けた。と同時に察かに自分がいつも聞いている音とは別の種類の音がそこで奏でられていた。彼のピアノはタッチとかそういう技巧的なものではなく、本質的な音源としてクリスタルのように透明で直線的だ。しかしそれだけではない。彼の演奏は絵画的でもあるのだ。私は朝靄のかかった湖に浮遊している錯覚におちいった。波も風もない、ただ静寂な湖面にビアノの音だけが流れてくる。別の曲になると今度は夏の草原が目に飛び込んできた。風にたなびく背の高い草が優しく足元をくすぐる。そしてまた別の曲になると夏の入道雲の湧き上がる空を大鷹になって飛んでいるようだった。
彼は芸術家という言葉を嫌う。その代わり音楽を信じるという。30代の頃の精力的だった彼のピアノと今の彼のものは異なっている。どちらが良いとか悪いとかという話ではない。まるで演奏すること生きることの怖さを知った思慮がそうさせているように思えてくる。
彼の発する音に対する拘りはさらに深くなっている。我々の方も彼の演奏を共感するためには努力が必要だと思う。いくらお金を出しているとしても聴衆がその努力をしないなら、どんなに良い演奏でも価値はない。共感できて初めて音楽の喜びがあるのだと知る。
日本人に限った事ではないが、我々は幼い頃より自由と権利を教えられてきた。それはこうしたときにもまず自分の権利を主張する矮小な思想がある。お金を出していれば何をしてもよいというのは思い上がりだ。それを言うなら演奏家はお金で呪縛された衆人でもないし、演奏しない自由だってあるのだ。
キースは神経質で気難しいと言う人がいる。そうだろうか、聴衆にコップ持ち上げ「ウォーター」とジョークを言ったり、「ハッピーバースデー キース」と言う人に今日じゃないと言ってみたり、さらにアンコールを4曲も演奏してくれた事を考えるときっと大阪では彼が共感できない何かがあったのだろうと考えを改めざる得ない。
会場から沸きあがった声援もきっと40年以上日本での彼の演奏をプロモートしてきた鯉沼さんだったのかもしれない。そういう音には彼はきっと愛情をもって答えるはずだ「みんな音楽が好きなんだね」と。