娘の御主人は地方公務員である。30年前の私だったら何故と思ったかもしれない。その頃の日本はこれからもずっと良くなると戦後の成長神話をし信じ続け、大きな仕事こそ男の本懐とばかりに今日の日本の姿など想像だにしなかったから。
友人のFBにとある鼎談の話が載っていた。3人とも開成から東大に進学した男性である。一人は年収3億の外資系トレーダー、六本木に住み贅沢な暮しをしている。もう一人は地方公務員、東大出の少ない中、仕事よりも家庭の安定を望んでいる。そして3人目は30歳で司法試験に合格したが年収はまだ300万円の居弁である。それぞれが自分の人生は間違っていないと話す・・・
これを読んでいて、確かに幸せのかたちが多様化したことがこうした事実を作り上げた要因だと思われるし、変化した世の中に適応していくためにそれはそれで仕方のないことだとも思う反面、戦後の日本の教育は個人主義、自由主義を歌うばかりに共同体としての繋がりを逸してしまっているような気がしてならなかった。
この歳にして想うのは、家族とて永遠の集合体ではない。夫婦とて同じだ。全ての人が自分と同じ価値観をもつなどあり得ない、しかしだからといってそれは関係ないとばかりに個人主義に走るのは折角の人生を無駄にしているようではありまいか。
スタッフによくいうのは、仕事も家庭も楽しめる方が良い、嫌だと思ってやる仕事と楽しいと思ってやる仕事では10年後にものすごい差がつくと・・・これは経験から・・・
私が今付き合っている友人の多くはそうした仕事も家庭も、友達もみんな大切と思いながら人生を謳歌している。
人間誰しも偉くなりたい、お金持ちになりたいと心の底では思っている。思っている事が悪いわけじゃない。ただ、それだけしか思えないのは寂しいのである。それだけでは結局虚しさしか残らない。
大切なのは今を楽しむ事だ。資本主義は労働からの解放が大命題だなどとその3人はほざいていたが、それは頭の大きなボンクラが考えることだ。
例えば私が3000円の対価を支払って車を洗ってもらう。これは労働を対価で買い取った事だ。
ではどうであろう、私が車を洗車するのは私が3000円の労働をしたというのであろうか。
とんでもない、私は3000円など要らない、この労働を私は楽しんでいるのだ。
自分のポケットが少ない人ほどこうした考え方をする。ポケットの多さは世の中の楽しみ方にあると思う。
蟻がいいとか、キリギリスがいいとか、そんな簡単な事ではないのだ。結局人生についてあれこれ考えるなら「キンチョールでも買っとけ」のとおり、最後に目をつぶる時に「俺の人生・・総じて楽しかったな」と思えるかどうかである。
ネイティブインディアンの格言にあるように「人は笑顔に囲まれて生を受け、涙に囲まれて生を終える」それが最高の人生というものなのである。