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2013年12月30日月曜日

初めてのスキー

幼なじみの女の子が近所の県営団地に住んでいた。鉄筋コンクリート造の4階建てのそれは平屋の粗末な我が家には憧れだった。何の変哲もないコンクリートの箱に階段が3箇所あって、部屋が左右に分かれていた。女の子で父親は中学の先生をしていた。そんな関係もあって水上温泉にある教員が泊まれる施設に連れて行ってもらったことがあった。施設の些細は覚えていないが、そのすぐ近くに私が初めてスキーを経験した鹿野沢スキー場があった。あの小さなスキー場が今もあるかは分からないが、ゲレンデのてっぺんに杉の木が一本ひょこんと立っていた。右側に長さは50メートルにも満たないロープトォがあった。
当時のスキーはベニヤ板のようなもので先だけ反り返っていた。つま先を固定する金具もただ長靴を引っ掛けるだけで動きもせず、後ろにワイヤーを回して、バッタンと前で止める代物だった。転んでも外れないし、突然外れることもあった。
暫くして、母は私を連れてスキーに行くようになった。電車しか利用できないので駅から近いスキー場に行った。日曜日の朝、早朝のまだ真っ暗な中、母に連れられて駅まで歩いていく、小学生の身には寒さと眠さが堪えた。両毛線に乗り、新前橋で上越線に乗り換える。電車はもちろん各駅停車、たまに急行に乗ることもあったがほとんどは各駅停車だった。上越線のスキー場までの駅名は全て諳んじて言えた。母は必ず焼きおにぎりを作っていた。理由は冷めても美味しいから。そう言われても冷たいものは冷たい、暖かいご飯が食べたいと思ったことを覚えている。
私は小說の雪国を読むずっと以前にあの文章の光景を見ていた。冬の清水トンネルは小說の描写そのまま、突然真っ白な世界に変わる。そこが好きだった。
よく行ったスキー場の一つが中里スキー場だった。駅前にお椀のような山がある。その山にいくつかのコースが作られていた。少し上手くなってくると山の後ろ側からまわる斜面が平坦すぎて面白くなくなった。
時折、岩原スキー場にも連れて行ってくれた。私はこのスキー場が好きだった。ゲレンデは扇形をしていた。上部には急斜面もあったが平均的には緩やかな斜面で広々していた。あの頃このスキー場にある芸能人のロッジが有名だった。そこでは私がまだ見たことのないような料理やワインが出されていたが、母とはそのロッジで食事をすることは一回もなかった。食堂に毛が生えたようなレストランでも私にはそれで十分だった。私はそのレストランのハヤシライスが好きだった。肉もほとんど入っていないソースにグリーンピースが3粒乗っていた。その横で母は朝の余った焼きおにぎりを食べていた。
何年かするとスキー靴は柔らかな牛革から革にプラスチックをコーテイングした硬い靴に変わったが、それもつかの間、全てプラスチック製の靴に変わった。ポールはだいぶ前に竹からジェラルミンに変わっていたが、ほどなくしてグニやっと曲がるジェラルミンからアルミに変わった。
初めて買ってもらったスキー板はオガサカのコンビネーションというブルーの板だった。当時、ヤマハのパラマウントやハイフレックスそして輸入品のクナイスルのホワイトスターが店頭の一番目立つところに飾られていたがいずれも高嶺の花だった。
小学校も高学年になるにつれて私は次第に友達たちとスキーに行くようになった。母とはそれ以来行っていない。いや、妻と結婚が決まった時、3人で志賀高原に行ったことがあった。30年近く前になる。渋峠の極上のパウダースノウを楽しんだのを覚えている。もうあんなには滑れないかもしれないが、久々に電車に乗って家族でスキーに行くのも悪くないかもしれない。





OVER SPEC

オーバースペック

日本の携帯電話は世界的に見れば不思議なものでその様相からガラバゴス携帯などと揶揄されています。でも、日本から出なければ特段不便なわけでもないし、利用者が困ることはありません。
ところが物の中にはそのもの単独で使うことは出来ず、全体との関連性が重視されるものがあります。そういったものをただそのものの性能を追い求めて作ってしまうと後で大変なことになります。
超大型戦艦の大和、武蔵の例は既知ですが、これはどちらかというと過剰能力というより時代錯誤的発想の愚の例ですが、同じ頃「島風」という駆逐艦が建造されました。この駆逐艦は時速40ノットを誇る当時の最速戦艦でした。ところが当時の駆逐艦の主な任務は輸送船等を護衛することが目的で結果他の船が遅いのにいくら速い能力を身につけても宝の持ち腐れとなります。また速いからといって飛行機には及ぶはずもなく、結局、1隻のみ作られただけでした。
こうした例は現在でも数多見られます。航空自衛隊の次期主力戦闘機(FX)の候補として挙げられているF35は設計の遅れにより導入時期の遅れが心配されていますが、アメリカにはこのF35以上に高性能なF22が既に存在しているのです。ところがこの機体は同盟国にも支給されず、アメリカ軍のみ使用する特殊兵器で、すでに生産は終了してしまっています。あまりの高性能ゆえ他国に持たせることが出来ないのです。こうなると各国との連携した軍事作戦は難しくなるばかりか、自国の作戦においても使いにくくなります。国防総省によると単独F22よりもF35等と組み合わせた方がより効率が良いと口を濁していますが、要するにその機体だけ飛び抜けていて作戦立案に不具合が生じる可能性があるということでしょう。
では国会で有名になった誰かの答弁のようにナンバーワンじゃなくても良いのでしょうか。最初から2番目を目指すことはもっと困難でしょうし、そのような目標設定では科学の分野でのリノベーションは起こりません。やはり大きな進歩にナンバーワンの発想は必要なことです。
このようなジレンマを解消するのにはどうしたら良いのでしょうか。ひとつは研究開発部分と実戦投入部分を切り離して考えることです。
白洲次郎が自ら乗っていたポルシェをトヨタ自動車にポンと渡し、これを研究してみろといったのは、その車体の何が優れていて、何がソグワナイのか勉強してみろということだと思います。それを知らないのにただ売れているからという理由でモノ作りをしていても何も残らないと考えたのでしょう。そう考えると今でも日本のモノ作り、特に工業製品においてはまだ発展途上、仏像に魂はまだ入っていないと言わざるえません。