三十五年の不覚
一生の不覚という言葉があるが、私の場合、生まれてから今日まででは少し無理があるので、味が分かるようになった十七、十八歳から今日までの三十五年間の不覚としておく。まあ一生の不覚でないだけましと自分に言い聞かせる事にするが私の中で大きくとんかつの基準が変わったと申し上げる。まるで北半球と南半球が逆さまになった位、青天の霹靂の出来事である。
とんかつは目黒に限るなどと大言壮語して今までヒレカツしか食べて来なかった私が武蔵小山の「たいよう」のロースカツを食べてノックアウトしたのだ。いや魂消た。
今まではどこのとんかつ屋でロースカツを食べても、必ず脂や筋が口に残り、飲みこむのに苦労した。それが何回も続くうちに結局ロースカツを頼まなくなった。そしてヒレカツばかりを注文していた。
実は食の雑文を一応きりの良いところまで書きあげたので、自分への御褒美として武蔵小山のたいように出掛けたのだが、それが衝撃の体験となったのだ。
私が出掛けたのは平日の11時15分、九席の小さなカウンターは既に満席だった。予約客が四名いるのでその後になりますと言われたが先頭だったので待つ事にした。数人の来客があったが予約で満席と書かれた看板を見て残念そうに帰って行った。待っている間に女性が注文を伺いに来た。
我が社の同伴したスタッフがこの店のようにランチで予約をとると席の空白が出来て効率が悪いと言っていたが、私には分かるような気がする。マスコミが美味しいと騒ぎ出すと、猫も杓子も詰めかけ常連が入れなくなってしまう。そして潮が引くように詰めかけた客は去り、残った店は台無しになってしまうからだ。自分の領分を弁え丁寧な仕事をする。それこそがこの店の店主の目指すところなのではないだろうか。そのあたりは中華そばの名店、多賀野とも似ている。
今日は自分への御褒美であると同時に、失敗しても良いと自分に言い聞かせロースカツを注文する事にしていたのだ。とカッコの良い事を言ったが、実はネットのコメントはあまり信用しない、あくまで参考程度、それより信頼する舌を持つ山本益博氏が高い評価をしていたのでそちらを信頼していたのだ。
私がランチのロースカツと普通のメニューのロースカツの違いを聞くと、肉質は全く同じで厚さが違うという。一方は百グラム、もう一方は百五十グラムである。迷うことなく百五十グラムを選択した。
お茶を出され待っている間に店主の動きに目をやった。口数少なく、控えめな店主の動きをみると、肉のたたき、衣づけ、揚げ、そして最後の包丁までとても丁寧にしかも的確に動いている。丁寧さは赤子を扱う如くである。いや、私が孫を風呂に入れるときよりも丁寧かもしれない。出来上がりの頃会いを見て、おしんこ、ご飯、豚汁が出され間もなくして大盛りのキャベツが乗った皿にトンカツが運ばれてくる。
はじめに右側の脂身の多い小さな肉片を何もつけずに食べた。口に入れた瞬間、脂が溶け噛んでも筋が無い。その脂身は臭いどころか甘さを感じる、そしてすっと口の中に消えていった。左に進むにつれ脂身は少なくなっていくが、そもそも脂身の付き方大変上品であるのでそのくどさは微塵も感じられない。脂身でない肉もきちんと火が入っているのに柔らかいだけでなく、しっとりしている。ご飯も美味しい。少し硬めのご飯であったがお米は立っているし甘みも感じる。豚汁もいい。味が濃いと言っていた人がいたが、そんなことはない。丁度いい濃さだと思う。おしんこも古漬けだが酸っぱくなっていない。箸やすめにはうってつけだと思う。そしてキャベツ、そう私はキャベツにうるさいのだ。その私からしてこの店のきゃべつは旨い。細さもさることながら、水揚げのタイミングが良いからなのかシャキシャキしてトンカツと一緒に口に入れると肉の甘みが一段強く感じられた。
百五十グラムのロースカツをペロッと平らげてしまった。いや、艾年を超えてもまだまだ知らない事が多い。自分の経験が如何に狭了で無知なのか思い知らされたのである。
やはり舌の記憶は更新されなければならない。今日からまた知らない味へのチャレンジが続く。だって言うでしょ。食べてみなければ分からないと。
出店 武蔵小山「たいよう」