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2012年11月8日木曜日

1981年のゴーストライダー Ⅶ



優子の自宅は国道一号線の混雑で有名な原宿の交差点から少し入ったところの住宅街にあった。

洋風のその建物は年数こそ経っているものの良く手入れのされたものだった。庭は南側に造られ、玄関横にはシュロの木が植えてあった。

優子には4歳違いの妹がいる。一年中真っ黒な優子とは違って色白の高校生の智子だ。優子の家に行くと洋一と優子の間に入るようにして二人の会話をよく聞いている。でも洋一にとっても智子が間にいることで、それが優子に対してみえないカーテンの様で都合が良かった。

ある日、智子の誕生日にケーキを買って出掛けたことがある。ケーキは洋一のアパートのある駅近くで有名なパティシェが作るものだった。ケーキの箱を開けると中を覗き込むようにして、智子は「好きなものがなーい」と屈託なく声をたてそのまま笑いながら二階に上がって行ってしまった。智子にはそういうところがある。冷蔵庫にケーキをしまって、二人は近くの権太坂にある炭焼きハンバーグで有名なファミリーレストランに出掛けた。洋一は甘いものが苦手だった。

ガラス越に焼かれる大きな肉の塊を見ながら、洋一は一週間前に出掛けた渋谷での講演の様子を話し始めた。
講演の内容に優子は全く興味のない様子だったが、洋一がレコード会社ではなくその会社にしようかと迷っていると話をしたら、その時だけ優子は「じゃコンサートやツアーに行ける特典はお預けなのね」と少しつまらなそうな顔をした。
料理が運ばれてくる頃にはいつもの優子に戻り「でも行きたいところに行くのが一番だものね、レコード会社だって洋楽とは限らないし、演歌の歌手のどさ回りにつきあうっていう事もあるし」と一人で食べながら笑っていた。
満更冗談ではなかった。2つ目の会社で君は演歌に向いていると洋一は言われたのだ。

二人は店を出て、車をUターンさせ国道一号線から第三京浜にのった。
 
空の高いところに宵の明星が出ている。西の空の端が茜色に燃えているようだった。
 
バックミラーにその茜色の空が取り残され、次第に闇の中に沈むように小さくなっていった。
 
街路灯はそんな茜色の空に突き刺さるようにサイドミラーを流れて行った。
 
 
 
 
 

時間の話 情報の断片化



皆さんはプルーストの「失われた時を求めて」を読んだことはありますよね、まあ無いとしても名前は誰でも知っている有名な円環的時間小説であります。

映画化されたアランロブクリエの「いつかマリエンバートで」は円環的というより、行きつ戻りつしながら話が断片的に進められていくものでした。羅生門にヒントを得たと聞きました。

私は数年前こんな絵をみたことがあります。

真四角の窓を少し離して等間隔に作っていき、その中に影絵のような人間を登場させるものです。そして等間隔の長さを変えまた作る。するとどうでしょう見えている姿を結びつけて私達は話を作っている事に驚かされたと同時に見えている姿が違えば物事のストーリーは異なり、さらに見えている部分が少ないほど物語は何通りもスト―リが出来てしまうのです。つまり可能性が拡大したのです。我々の生活とはいわばこの影絵つまり情報なのです。時間の持つ本質的なものを忘れるとその影絵の中の人物のように情報の断片となってしまうのかもしれません。

息子が小学生の時に、時間と空間の本を読んであげた事があります。アインシュタインの相対性理論や特殊相対性理論もさることながら、息子は歪んだ宇宙時間の話をしていくうちに怖くなったのか耳を抑え始めました。それ以来今でも宇宙や時間の事を考えると怖くなると言っています。ちなみに23歳の大学生です。(笑)

そのくせ彼は恩田陸さんの大ファンで彼の書架には全ての小説があります。(笑)

恩田さんと言えばよくこの時間を取り上げます。事実彼女はある小説でアランロブクリエの「去年マリエンバートで」を参考にしたとも言っていました。

今見えているこの世界は数秒後には無くなっているのです。数秒後にはまた別の世界が存在する訳です。

今こうしてパソコンの画面に文字を入力している自分がもし入力しなかったら、明日は必ず入力した自分とは違う世界になっている訳です。それが全体からみれば凄く小さくて気づかないかもしれませんが、異なっていることは事実なのです。あの影絵のように。

あらゆることが何らかの関係性を持っていると教えてくれるのは複雑系という学問を専門にしている人達です。

ステーブン・ストロガッツのいうシンクロです。

インターネットをやるとバカになると昨日テレビでその筋の専門家という人が言っていました。馬鹿じゃないでしょうか、脳科学がどんなに進んで人間の脳を研究しても、人間の脳には可塑性を伴い未だ神秘のベールが存在する訳ですから、そう簡単な結論は出ないはずです。

昨日も、とある新聞を読んでいたら、息子の同級生で天才と呼ばれたその人は「我々はDNAというパンドラの箱を先人達が開ける姿を固唾をのんで見守っていたが、今度はその中にいくつもの箱が登場し、我々はそのブラックボックスを開けなければならない」とまさに生命科学の先端の研究をしている人の言葉で、思わず膝を叩きました。

時間が見えなければ単に私達は情報として処理されます。それは明日には存在も許されず消滅する泡のようものです。

サービスの先にあるもの

近年の日本の製造業は効率的な事が良いことだとばかりに手のかかる事を出来るだけやらないような方向に向かっていた。押し並べてそのようである。

アメリカのように洗濯機のメーカーに電話したらその相手はインドのバンガロールで受けていたなんていう極端な事はないにしても、大体サービスの電話受け付けは別の会社に委託している場合が多い。

先日もリビングの照明の埃とりをしようと手を伸ばしたらガラスのカバーが外れて落下した。メーカーに部品を問い合わせしたが一般の消費者とは直接取引できないの一点張りである。街場の電気屋さんが姿を消した今消費者はどうすれば良いというのだろう。

もう一点はこれも欧米に習った「コンプアライアンス」。何事にもすぐこの言葉が出てくる。もちろん社会正義は必要だし、重要でない訳ではないが、彼らが言う「コンプアライアンス」自分たちの身を守る為の「コンプアライアンス」で少しも消費者のための物ではない。

物作り大国からの転落と良く言われるが、そもそもこうした不十分なサービスならば消費者は出来るだけ安いものが良いと判断するたろう。結果、外国製品に押されて国内でも売れなくなってしまうのじゃないだろうか。

Sママが日本人は良い事をしても褒めないと言っていた。本当にそう思う。そこで今日は賞賛に値する話題ほひとつ。

私は仕事柄多くの建物を作ってきた。ビルもあれば住宅や別荘もある。そんな経験から日本のあるメーカーをお薦めしたい。TOTOというメーカーである。

多くの住宅機材メーカーが再編され、資本の増強を図る中、他のメーカー同様それらのサービスの質は低下している。

ところがこのメーカーは違う。まず修理受付の電話がそう待たせない。さらにその時間帯も多くが5時や6時で終了するのに対して7時まで受け付けをしている。

そしてそのレスポンスの早さは驚きである。

昨日も18年間使い続けた便器に「お尻を噛まれた」。これは便座にひびが入り陥穿に皮膚が挟まるのでこういうのだが、よく音を聞くとタンクの中で水が漏れている。

修理受付をすると男性からすぐに連絡が入った、明日伺うというのである。

街場の電気店だって今日の明日とは中々行かない。

18年も大きなおしりを受け止めてくれて本当にその労苦は良く理解する(笑)

そろそろガタがきても致し方ない。いつかは交換しなければならない。その時にまたお前さんと同じ生まれの製品にすることにしようと思わせるのが、サービスの本質なのではないだろうか。

今日はおしりかじり虫の話題でした・・・・・