親父のジャジャ麺
餃子のところでも書いたが父はジャジャ麺を作ってくれた。子供の私は父親が家族に今日の夕食はジャジャ麺だと公言するとなんだかソワソワした。母親が作る味とは違う、どこか謎めいた味に期待していたのかもしれない。しかしながら田舎町に今のように中華材料があるはずが無い。手に入る材料を工夫して作っていた。当時、花山椒はなかった。父は普通の山椒と唐辛子で代用した。テンメンジャンも無かった。赤みそと白みそ、砂糖、酒にごま油で作っていた。ただ生姜と葱はよく炒めていた。
父は北京鍋を好んだ。私は今でも中華をする時は北京鍋を使う。我が家に上海鍋(両手の付いた)は無い。父に言わせると北京ではコークスで料理するため持ち手が丈夫な北京鍋でないと駄目らしい。本場ではそれに包帯のように布をぐるぐる巻いて使うと言っていたが、中華街でその光景を目にしたのは後年になってからだった。
群馬県と言うのは概ねうどん文化圏である。隣県の長野とは違う。市内でも手打ちうどんの旨い店が多かった。家から500メートルの距離に次郎長という旨いうどん屋があって、打ち立ての麺も売っていた。私は百円玉を握りしめてこの店にお使いに行かされた。
家に帰ると母が大きな鍋に湯を沸かし、今か今かとうどん玉の投入を待っていた。
冷たい流水で清められ食卓に出されるそれはつるつるでしこしこの食感で新鮮なキュウリが大盛りに添えられたジャジャ麺だった。一言もしゃべらずに最後の一本まで麺をすすった事を思い出す。その時の父はとても満足そうだった。私が料理をするようになったのもこの父のお陰かもしれない。
仕事で盛岡に行った。盛岡と言えばわんこそばや冷麺が有名であるがジャジャ麺も有名とは知らなかった。名前は忘れたが市内の店を見つけ暖簾をくぐった。出されたそれは父が作ったそれと似ていて麺も中華麺でなく家よりやや細めのうどんだった。味噌もその濃さといい、少しシカシカする赤みその食感といい、とても似ていた。
そうこうするうちに東京にも盛岡ジャジャ麺の店が進出してきた。その店は神田にある「キタイチ」という店だ。麺は盛岡で食べたそれよりさらに細く、腰が無い。最後に生卵を入れてスープにして飲み干すところは似ていた。
梅雨入り前にこの店に出掛けるもよし、自分で腰のある麺を見つけて作るもよし、こうして父の感慨に耽るのも悪くないかもしれない。父の年齢に近づいている艾年を超えた男として。