私の生まれ育った街は内陸で海や大きな湖、運河があるわけではないのに競艇場があった。恐らく全国でも沼でボートレースを開催しているのはここくらいではあるまいか。その沼を阿左美沼といった。
私の家からは橋を渡り隣町にあるその沼まで徒歩では30分以上掛かる。沼の淵には葦が生い茂り冬になると渡り鳥もやってくる。沼には鯉や鮒、げんごろうや蛙もいて、子供には格好の遊び場だったが、何故か子供の姿を一人も見かけることはなかった。それもそのはず競艇場内で事故があっては大問題と官民挙げての厳しい規制線が引かれていたからだ。
私が高校に進学した頃、我が家は困窮していた。父のやっていた窯業が理由は分からないが取りやめとなって、作陶していた窯を追われた。その後に窯を継いだのは父の使用人だった。父は自暴自棄になるわけでもなく、他人を恨むでもなく、さっさと自らの好気の目を他に向けていた。よって父は家を空けることが多く、収入は不安定だった。
私が幼い頃、母は内職をしていた。織物の街らしく当時は刺繍の仕事もあったが、その頃には繊維業を斜陽になり、家にあった工業用の刺繍ミシンはとても安く買いたたかれて業者に引き取られていた。
母が競艇場に出納のパートの仕事があると聞いて通うようになったのはその頃である。当時、スイトウと聞いて、スイトウとは何ぞやと考えた。水筒では繋がらないし、何となくお金を扱う仕事だと感じていたが些細が分かるはずもない。
母まずカブを買った。蕪でも株でもない、ホンダのスーパーカブのことだ。母は雨の日も風の日もこのカブで競艇場に通った。ここはからっ風で有名な上州である。東京の北風なんて風じゃないと思われる砂埃の北風が渡良瀬川の上を吹き降ろす。商業高校のグラウンドの砂が高く舞い上がり、橋の上では視界も効かない。母はいつも手袋を二重にしてマスクの上にさらにマフラーと帽子をかぶって出掛けて行った。
そんな母がある日、競艇場から袋いっぱいの人蔘を持って帰ってきた。一畳ほどの狭い台所に母は立ち何も言わず何かを作っている。出来上がったそれは人蔘とイカだけの見た目はいただけない代物だった。母に聞くと同じ職場に通う、福島出身の人がこの料理を山ほど作ってきて皆で試食させたそうだ。母の口にあったのか、美味しいと言うと、人蔘を分けてくれたそうである。その人の嫁ぎ先は農家だったので人蔘には事欠かない。特に冬のそれが美味しいということであった。
イカ人蔘を食べるとなんともほろ苦いあの頃を思い出す。からっ風はないけどね。