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2015年9月8日火曜日

うなぎクライシス2
 私の育った街は川に囲まれていた。家のすぐ裏手には渡良瀬川が流れていた。当時は悪名高い足尾の鉱毒こそ流されなくなったものの、様々な生活排水が流れ込み綺麗ではなかった。魚といえばハヤ(私達はそう呼んでいた=ウグイ 鯎)や毒魚のギギなどしかいなかった。それでも少し足を延ばし支流に行けば山女や岩魚をとることもできた。
両親の友人一家が引っ越していった郊外の住宅地にも小さな川が流れていた。その川にはイモリやうなぎがいた。うなぎといってもお腹に斑点がある八つ目うなぎである。この八つ目うなぎを獲る時に使う魚篭(びく)は入口に返しがあり、魚が逃げない工夫がなされていて、その一番奥に石で潰したタニシを布に包んで入れていた。一晩経ってその魚篭を上げてみるとまんまとうなぎや川ガニが入っているという訳である。私はこの八つ目うなぎを一度も食した事がないし、たぶんこれからも食すことはないと思う。生活に近すぎた食材というのはこんなものである。
話は変わるがうなぎの卵が遠く北マリアナ海溝で見つかったとテレビで放映されていた。うなぎは稚魚(シラスウナギ)を河口で捕り、これを養殖させるわけであるが、うなぎの生態は未だ詳しくは解明されていない様子である。また近年、天然の稚魚が激減しているという。稚魚の値段がうなぎ昇りだと。うなぎが食べられなくなったら困るので研究の一早い実用化を望むところだ。
私が幼いころ、本当に偶にであるが、両親がうなぎを食べに近くの店に連れて行ってくれた。その店は家からそう遠くない(当時の私にはとても遠く感じたが)ところにあった。群青色の暖簾に白抜きで「うなぎ」と書かれていたその店のうなぎは本当に旨かった。
うなぎが好きな人と嫌いな人が分かれると言う。あの姿が苦手だと言う人もいれば、美味しいうなぎを食べたことが無いという人もいる。直木賞をとった四国出身の男性作家は後者で大人になって初めて美味しいうなぎを食して好きになったと本に書いてあったが、私の場合は少し違う、つまり原体験は美味しかったのだ。子供にうなぎの味が分かるはずもないと叱責されそうだが、あのうなぎは確かに美味しかったのだ。
上京してうなぎを食す機会が無かったわけではない。しかしながら貧乏学生、薄給のサラリーマンの食べられるそれはどれも身は硬く骨っぽく、表面には水飴の様なベットリしたものが付いていた。かくして私は暫くうなぎからは遠ざかることになったのである。
関西は腹開き、関東は背開きという。私にはどうでもよい。それより、うなぎを蒸すか蒸さないかは重要であった(過去形)
私はつい最近まで関東風の蒸した柔らかい鰻が好きだと思っていた。東京で食べるうなぎの殆どがこの作り方であるからだ。ところがある御仁からそれは関西風の美味しいうなぎを食べた事がないからだと指摘された。味のわかるその御仁のご高説もっともである。ならばと、娘の住む岡崎に向かい駅至近の「はせべ」という店で食した。待つこと30分、運ばれた白焼きと鰻重を食べた瞬間、私の浅はかさを恥じたのである。旨い。外はパリッとしていて中はふっくら、タレも甘すぎること無く、完全に私の想像を超える旨さである。。それ以来、蒸す、蒸さないで判断することはしないことにした。
関西と関東の違いは何からくるのであろうか。色々な本で調べてみると、うなぎそのものが一番の理由だったようである。例えば産卵のために川を下るうなぎと上るうなぎではその肉身は違うであろうし、四万十川のうなぎと利根川のうなぎでは違う。そこで背開きや腹開き、蒸さないうなぎ、蒸すうなぎと調理方が別れたようである。地産地消が一番ということらしい。
しかしながら、江戸前の蒸すうなぎが嫌いになった訳ではない。それはそれで美味しい店がある。東京もさることながら鎌倉の由比ガ浜通りにある「つるや」、辻堂の分かりにくい住宅街にある「うな平」は三指に入る旨さだ。特に「うな平」の肝吸いは素晴らしい。
豊橋に「丸よ」という店がある。豊橋はどうやら関東風と関西風の境界らしい。この店のうなぎは特別に美味しいということから別品=別嬪、べっぴんと呼ばれ、時代と共に意味が拡大し美しい女性を別嬪と呼ぶようになったと聞くが、なんともうなぎが転じたとは面白い。ここのうなぎは裏返して並べられる。何でもそのほうがタレがしっかりと掛かっていると見えるということらしいが、やはり見た目も大切、私はこれには賛同いたしかねる。
一度だけ海外でうなぎを食べたことがある。日本式のうな重である。食べたのは高級ブティックが立ち並ぶパリのサントノーレ通り。お昼時を過ぎたそのお店は比較的空いていて私たち以外に数組の客がいただけだった。東麻布に本店があるその店はガイドブックに載っている有名店である。日本と同じように三十分以上待って恭しく運ばれてきたうなぎを食して愕然とした。まるでゴムのようである。噛み切れない。たれやご飯は普通に美味しいのにうなぎが全然違う。あたりを見回すと、金髪を肩のあたりまで伸ばして指には数カラットもあろうかと思う宝石を身に付けた日焼けしたマダムが何も言わず美味しそうに食していた。あとで分かったことなのだが、どうも欧州のうなぎは日本の物とは種類が違うらしい。
うなぎには綺麗な水が必要といわれる。うなぎの臭みを抜くために一、二日その綺麗な水の中で活かしておくことが必要らしい。老舗のうなぎ屋には必ず井戸があってその水が大切な役目を果たすようだ。三島は富士の伏流水が市内至る所に流れていてこの水を利用してうなぎ屋が多いことでも有名である。偶然にも銀座からこの三島に終家(居だけでなく事務所も)を移した弁護士の先生がいることもあり、三島に出掛けることがある。というよりこのうなぎを目当てに仕事を無理やりつくっていると勘繰られそうであるが、私は三島広小路の「桜屋」が好きである。ここのうなぎはふっくらしている。そして臭みが例によって綺麗に消されている。店の裏手を覗くとこれから調理されようとしているうなぎが水色のプラスチックの大きな籠の中で元気に動いている。それを若い職人が数匹選んで調理場に持っていく。
世の中に天然もの礼賛の流れがあるが、私はこれに異を唱えたい。既出の東麻布の店でもまた横浜の某店でも天然うなぎを提供するが、恐ろしく値段が高い割上に脂が無かったり硬かったりとバラつきが多い。
渋谷に「うな鐡」という店がある。今は区画整理され綺麗になってしまったが、井の頭線の出入り口に程近い大衆店である。私の様な薄給のサラリーマンでも何とか食べられる店だった。この店はうなぎを水に付けて焼く、それによって無駄な脂が程良く落ちて、よく蒸したうなぎに近い味の物を提供する。千円で食べられるうな丼、今はどうなっているのだろう。
うなぎ懐石なる店がある。フランスのタイヤメーカーのランキング本にはこの手の店が星を付けて載っているが私に言わせればうなぎはうなぎである。邪道以外の何物でもない。
数十年前に私の車の師匠でもある翁に帝釈天の参道にある「川千家」に連れて行ってもらった。焼き方、蒸し方、タレ全てが私の好みだった。一辺で好きになった。小一時間待たされるのはご愛敬である。
老舗のうなぎ屋の中には予約の中々取れない店もある。浅草にある店もそうである。予約が取れないのは仕方ないにしても、あの無愛想な電話の応対は如何なものであろうか。人柄の良いご主人が焼くうなぎは辛口でさっぱりしていると、かの作家も書いていたのに残念である。神田明神下にある店も食わしてやるという気持ちが見え見えである。ごめん被りたい。
本店は神田にある「菊川」も好きである。近いので用賀の店に行くことが多いが、この店は最初から「うちは味の不安定な天然ではなく吟味した養殖物を使う」と明言している潔さも良しとしたい。特にお薦めは白焼き。
あーあ、お腹が空いてきたまだ九時だ。今日は墨田区に行く所用がある。帝釈天も程近い、よしと思う横から今日は時間がないと言われた。言われれば言われるほど食べたい。それがうなぎである。曼の意味を持つ、「つやつやのふっくらしたうなぎ」こそ「うなぎ」=鰻なのである。
最後に私が幼かった頃食べていたうなぎは「蒸さないうなぎ」だったことを補記したい。


2015年9月改訂




2014年3月7日金曜日

和食について


 和食がユネスコの世界文化遺産に登録されたと聞く。なんだかしっくりこないのは私だけだろうか。
そもそも和食と言われて多くの人は何を想像するのだろうか。京料理に代表される懐石料理のことなのか、それとももう少しカジュアルな割烹のようなものか、はたまた江戸前の握り寿司を思い浮かべるのか分からないが、蕎麦やうどん、ラーメンやカレーだって言い換えれば和食なのだからその裾野はかなり広いと思うのだ。
海外に行って和食を食べようとすると似ているが和食ではない店が多い。今や誰もが口にしたことはあるカリフォルニアロールだって和食といえば和食なのだ。
パリで1つ星を獲った和食のレストランに息子が出かけた。その店の主人はパリの魚事情があまりに酷く、自分が魚屋をするつもりで流通ルートから開拓すると意気込んでいたが結果は京都の和食店には遠く及ばぬものだったらしい。結局壁を乗り越えられなかったということか。またもや和食の星は当てにならぬ事を証明した。
そもそもその壁の考え方が間違っているのかもしれない。日本の和食をそのまま持ち込むことが本当に素晴らしいことなのだろうか。その土地にはその土地の気候がある。とれる食材も当然違う。だからカリフォルニアロールだって生まれたわけだ。日本と同じ和食を海外でつくろうとする行為こそ、間違っているのではないだろうか。
私たちの舌はそんな狭量ではない。その時時に応じて食べ分けることが出来るのだから。
因みに我が社のT君は日本に帰るとラーメンが一番食べたくなると言っていた。



2013年12月6日金曜日

味の多面体 八十八の鰻

味の多面体 八十八の鰻

表題のような誰かの本を読んだことがある。まあその話は余談にして、鰻について以前つれづれと書きしるした。その時、横浜の老舗「八十八」の復興が待たれるとしていたのだが、この春に八十八が二店舗一気呵成にこの復興を果たしたのである。
実はここには偶然の偶然が関係している。私が「八十八」を知ったのはつい最近山口瞳著「行きつけの店」という本の中である。この本は鎌倉の古本屋で見つけた。簟戸に戻り頁をめくると最後に筆で花押のような元気なサインがあった。そのサインが目的で購入した訳ではなかったし、本は至極まっとうな価格であったのでなんとなく得をしたような気分だったことに気を良くしてその事を友人に話すと、何と友人は山口氏の水彩画を持っているという。友人は大手のカード会社に長らく在籍していて、氏はカード会社で発行する紙面にコラムを寄せていたようである。そんな縁でその会社のロビーには山口氏の関連する書や水彩画などが飾られていたとのことである。ところが組織というのは突然消えてしまったり、生まれたりする。そんな憂き目で氏の絵は散逸する寸前のところで友人に助けだされたという顛末だった。
そんなことをブログに書いていたら、どこでどうしたのか八十八の関係者の目に止まったようである。私のところに店の復興を祈願する期間限定のイベントのお誘いが届いた。昨年の春の話だ。場所はゴールデンウィークでごったがえす横浜球場である。もちろんノコノコ出かけ「もうこれ以上は無理というギリギリの辛口の極上鰻」を食したのである。
鰻は関東風が一番だと思っていた。その考え自体は変わらないのだが、ある発泡酒のイベントで京都出身の方とお話する機会を得た。そのイベントでも主催者側の奨めるそれより、自らの舌と好みを公言して憚らないあたり並の方ではないと思っていたが、案の定、京都でこだわりの豆腐を作っておられる経営者であった。関西はもとより関東の大手スーパーでもその豆腐は販売されているし、組合の理事も務められているようであるから食の専門家エキシスパートであった。その方と鰻の話をした時、やはり、鰻は蒸さないほうが美味しいと言っていた。その時はそれまでの食習慣や文化の違いかと思ったが、よく考えてみると、私はほんとうに美味しい蒸さない鰻をたべたことがないのではないかと思うようになったのである。ロースよりヒレとつい最近まで思っていた、あの35年の不覚と同様だ。逆にあの方もほんとうに美味しい蒸した鰻を食べたことがないのかもしれない。文化の不通とはしばしばそういう時に起こるものだからである。だから私は美味しいと聞けば蒸そうが蒸さすともまず行って食べてみることにしたのだ。
昨日、八十八のうなぎを食べて、あらっと思った。頭のなかで配線が繋がったような気分だった。八十八の鰻はザラメを入れない。醤油と味醂だけである。だからタレは相当に辛い。辛い鰻が駄目という人には無理だろう。ただし、塩っぱいということはないからご安心あれ。食べながら過去にたべた鰻の味を思い出していた。野田岩、川千家、宮川、菊川、櫻屋、つるや、島むらなどなど、とりあえず舌の記憶に新しい川千家、つるやと八十八を頭のなかで比べてみた。タレの辛さは八十八>つるや>川千家の順である。おそらく。そして蒸し加減、つまり柔らかさは川千家>つるや>八十八の順番になる。見事なまでにタレの辛さに反比例している。
私が美味しいと思っているこの三軒はタレと鰻の蒸し加減を自らの経験に寄って調和させていたのである。私は唸った。美味しい蒸し鰻を食べたことがないと言う人はこの調和が取れていない鰻を食べたのではなかろうか。柔らかく身が崩れそうな鰻に辛いタレではタレを食べているようだし、蒸しの甘い鰻に薄いタレでは負けてしまう。経験によってのみ知識は集約し価値を生み出すというが鰻とてあながち間違いではなさそうである。
そう、料理は多面体なのだと一人悦に入る私である。








2013年11月5日火曜日

居心地の良い店 CoCoMo

このお店は大切なお店で人にはあまり教えたくないのですが、この文章を読んでくれる方ならばきっとこの店の良さが分かっていただけると確信し紹介することにしました。
この店には不思議な魅力があります。通年供される生牡蠣と白ワインが美味しいのは当たり前としてもその引力とも呼べるお店の魔法についぞ引き寄せられてしまいます。

その店の名前はココモ=CoCoMoといい、比ヶ浜海岸の真ん中134号線沿いにあります。冬場はお休みが多いの(後で分かります)でいつも振られてしまい中々入ることが出来はなかったのですが、数年前、運良く入ることが出来た初秋の夕陽に完全にノックアウトさせられてしまいました。

湘南には綺麗な夕陽を眺められる店は多くあります。この店もそんなお店の一つですが、ここの特徴は窓がいつも開け放されていることです。開け放つことの出来ない季節はクローズとなるので営業しているときはいつもオープンなのです。やや薄暗い店内と相まって、大きな木製の窓枠がまるで絵画の額縁のように前面の景色を切り取って見せてくれます。その表情は刻一刻と変化し太陽が沈み夕闇に包まれるまで続きます。先程まで砂浜ではしゃいでいた修学旅行生がいなくなり、代わって恋人たちが浜辺に座り込み、さらにその二人もいなくなり、トビが太陽の方に向かって鳴きながら去っていきます。ガラスが無いということだけでこれほど景色と自分が一体になるとは知りませんでした。

そしてこの美しい景色にマッチしたシンプルで飽きのこない牡蠣を中心とした料理もこのシチュエーションの一部のようです。

お店の内装も自然体です。新しいピカピカしたものは一つもありません。時の経過とともに自然のものが自然に帰っていくごくふつうの事がここではインテリアになっています。
店もそうならギャルソンの女の子もとても自然体です。いつも明るく海のような穏やかさで、一言二言話すうちに地元のサーファーであることがすぐわかります。目の前の海をいつも眺めながら働いていると小さなことなどどうでも良いと心の芯が太くなるのかもしれません。一本頼んだデキャンタの白ワインもなくなり、追加をオーダーしながら今週の波の話題が続きます。

昼間のサーフィンを終えて疲れた身体にこれほど癒しの空間はありません。白ワインが身体の隅々まで染み渡る頃には肩の筋肉痛もなくなり、景色は月を抱えながら夜の静寂が降りてきます。サーファーにとってこれ以上何が必要なのでしょう。







2013年8月1日木曜日

バジリコスパゲティ

バジリコスパゲティ

1970年代も終わろうとしていた時、田舎から上京した若者は六本木の外れでアルバイトをしていた。東京の右も左も分からぬまま都会の魔法陣の真っただ中で一人うつむきながら来る日も来る日も皿を洗っていた。
その日は珍しく早く終わって駅に向かう途中だった。ビルの谷間に夏の風が匂いを運んできた。何の匂いなのか分からぬまま、ただ生ぬるい夏の風は人々の欲望と快楽をひとからげにして街を彷徨っているようだった。まるで死者のように。そして夜の帳が重く滓のように重なっていく。
青年が働いていた店の近くに高級外車が夜な夜な集まり、派手なドレスを着た女性たちが降りたつ店があった。その店は地下にあった。青年は灯りに誘われた虫のように初めてその店の細い通路のような階段を下りて行った。店の中には先程のドレスの女性たちが談笑している。相手の男性は誰もが瀟洒な身なりで青年とは違っていた。女性のドレスは赤、青、黄色と原色の花のようだった。赤い口紅とマスカラが同じでどの顔も同じように見えた。ただ女性たちの目は笑いながらも、肉食獣が獲物を前にして舌舐めずりする鋭い眼光が奥に潜んでいた。男性の顔は見えなかった。照明が逆光になりところどころ照らされてはいるが全体が掴めない。青年は何とか見ようと目を細めてみるが見ようとすればするほど全体が分断されていく。最後には断片となった鼻、目、口、耳がバラバラと崩れて行く。ゲシュタルト崩壊。青年はすんでのところで店に入らずに済んだ。
それから20年、青年は歳を取り、家庭も持った。子供も生まれた。そしてあの店のテーブルに座っている。周りの人の顔がよく見える。メニューにあるバジリコのスパゲティと白ワインを注文した。運ばれてきたスパゲティの上にバジリコの葉が添えられていた。バジリコ以外にもパセリと大葉が使われていたが、傍目には分からない。あの時顔の分からない男性が食べていたものがこんな味だと20年経って初めて知った。店を出ようと会計を済ませるとまだ年端の行かない若いジーンズ姿の青年が驚いたように目を見開きこちらを見ている。青年はふと我に返ったように足早で階段を駆け上がって行ってしまった。



出店 飯倉片町「キャンティ」





2013年7月25日木曜日

月曜日のプリン・ア・ラ・モード

月曜日のプリン・ア・ラ・モード

甘いものは苦手と嘯きながらこんな事書いているのだから仕方がない親爺であります。
私実はプリン大好きなのです。尤卵好きなのでこれも仕方なしと認めてくれる稀有な御仁もおられましょうが、普段は甘いものを食べない私でもプリンとシュークリームは別であると公言致します。
パフェと言う食べ物があります。そう、フルーツパフェとかチョコレートパフェといった食べ物です。実は私はあれが大の苦手なのです。何故、苦手かと言うと中に何が入っているか分からないからであります。ゼリーやスポンジ、シリアルといったものが容赦なく入っている。あれは恐ろしい食べ物であります。最初のフルーツやアイスに騙されて食べ進めて行くと突如としてケッタイナものがスプーンに乗り始めます。あれはいけない南の島での恋人とのバカンスが一通の電話で帰国を促されたような最悪の気分です。それでももってこの言葉はフランス語のパーフェクト、つまり完璧から来ているというからもっとたまりません。何がパーフェクトかさっぱり分かりません。おそらく死ぬまで自らオーダーする事はないでしょう。
そこへ行くとサンデーは違います。三食サンデーと言えば三種類のアイスクリームが乗っているのが常で、へんてこなシリアルなんかはありません。このサンデーはキンキンに冷たくなったステンレスの器に乗っているのが尚宜しいと思うのですが、もともとはその名の通り日曜日に売られていたもののようです。禁酒法の時代、酒が御法度の庶民の楽しみとして日曜日に出されていたのが語源のようです。ですから、月曜日に頼むのは少し気が引けます。そんなときはプリン・ア・ラ・モードなる食べ物が控えております。こちらは真ん中にプリン、そしていくばくかの生クリームとフルーツが添えられています。こちらも紛れもなく中身が分かる公明正大な透明性のある逸品です。私は夏の暑い時期に自転車で鎌倉駅まで行き、小町通りの「門」という喫茶店でこうした甘味を食しながら、道行く人を見ているのが何よりの楽しみでした。この店は観光客の多い鎌倉の表玄関ながらあまりに渋い店構えと常連と思しき人たちの存在感で一種別次元の空間を醸し出していました。窓越しに道行く人を見ながら、人間観察するにはうってつけの場所でしたが惜しむらくそんな門も閉店してしまいました。私にとってしばらくは月曜日のプリン・ア・ラ・モードはお預けのようです。



出店 鎌倉「門 閉店」







2013年7月19日金曜日

倫敦の食事

倫敦の食事

ロンドンから帰って知り合いに会うと皆口を揃えて、ロンドンでの食事について「大変だったでしょ、お口に合うものがありましたか?」と心配とも憐みとも取れる言葉を戴いた。
こちらとしてはどの食事も美味しくまた楽しく過ごす事が出来たので何故そこまでにロンドンの食事は酷いと言う事が定説になっているのだろうと考えてしまう。
少し前までのロンドンはそうだったかもしれない。確かに今回も泊ったランガムヒルトンでの朝食に出て来た食パンはとても薄く、焦げていて硬く、多くの日本人は目をしかめるのだろう。ところが私はそもそもパンがあまり好きではない。ふわっとしたバーターたっぷりのクロワッサンなど目の前に置かれたならば、すかさず逃亡して部屋でカップヌードルを啜りたくなる。食パンを食べるときは出来るだけ薄く、かつ焦げる寸前まで良く焼く。つまりはこの食パンのようなものが個人的には好みなのである。
ロンドンの地下鉄はその形状からチューブと呼ばれる。パリのメトロに比べると近代的であるが、ひところの治安の悪さは改善され昼間ならツーリストも問題なく乗れる。私達はこの地下鉄で街中移動した。
ピカデリーの近くの中古レコード店に出掛けた。ここはレゲエとロックのLPレコードが世界中から集められ、そのジャンルのファンが年中押しかけていた。私もジミークリフの古いレコードを一つ買い求め店の外に出た。
通りを歩いていると何やら良い匂いがしてきた。こちとら何かと食べ物には鼻が効く。美味しいものの匂いとそうでないものを嗅ぎわける先天的能力と言ってしまえばカッコか言いが、要するに食いしん坊なのである。
表通りからその店を覗くと、細長く店のファサードは表通りにあるのだが、店は裏の広場に抜けている。その広場を2.3店の中華料理店が共同で使っていて、食材の下処理がなされていた。豚の足が吊るされ、中国語が飛び交っている。私は迷わずその店には行った。
従業員は笑顔一つ見せずにテーブルにメニューをバサッと置いて、奥に戻ってしまった。店は決して新しくはないが、綺麗に磨きあげられていた。厨房では4.5人の中国人と思しき男性たちが働いていた。
私は北京ダックと炒飯、そして青菜の炒め物を注文した。妻は五目粥にしようとしたが、本場の五目粥は内臓が入るため妻にそのことを告げると彼女は海鮮粥に変更した。
一緒に頼んだ青島ビールと一緒に次々と料理が運ばれてきた。私は一度香港の北京ダックの有名店で食べた事があるが、こちらのものは概して日本のように皮だけを上品に包むそれとは違う。肉も時には骨の付いたような大きな肉片も一緒に食べるのでボリュームはかなりある。やはり間違いはなかった。
青菜の炒め物は実に軽やかだ、炒め物なのに油が抑えられていた。中華料理の本にあったが、油でいためる方法ともうひとつ、油の浮いたお湯の中でゆがくという方法があるらしいが、その場ではどちらなのか判断が付かなかった。
海鮮粥には海老とホタテ貝そして豪勢にあわびまで入っていた。猫舌の妻はレンゲに少しだけ粥をとりフウフウ言いながら掬って食べていた。私は二本目の青島ビールを飲みおえるところだった。
ホテルに戻ってから腹ごなしにリージェントパークまで散歩した。すぐ近くにシャーロックホームズ博物館があるというので立ち寄ってみた。普通の小さな家がそれだったがあまり見るべきものはなかった。
リージェントパークの緑は美しかった。その美しい芝生の真ん中で子供達がサッカーをしていた。日本のように見るだけの美しい芝生とは大違いだと思った。散歩をしている犬もどこか落ち着いている。紳士淑女の国というが犬もそうなのか。
その日の夕食はホテルからほど近い、インドレストランに入った。南インドの料理と出ていた。南インドと言えば新婚旅行で行ったスリランカを思い出す。来る日も来る日もカレーだったが一向に飽きなかった。あれは人生最大のカレーの日々だった。
私達は海老の辛いカレーと卵とココナッツミルクの優しいカレー、それにナンを頼んだ。カレーはどちらも香辛料が効いていて美味しかった。辛いと言っていたがさほどでもなかった。ナンは幾分小振りであったが弾力があってモチモチして美味しかった。インドにはキングフィッシャーというビールがある。もちろんそれを頼んだ。軽くて癖が無く美味しいビールだ。
翌朝、ホテルを出てヒースロー空港で時間を潰していると、オイスターバーと白文字でブルーの地に大きく書かれた看板が目に入った。すかさずカウンターに陣取り、目の前にあるフラッターを指差してフランス産のシャルドネを頼んだ。そして飛行機の中では昼間のワインが効いたのか良く眠る事が出来た。
ようするに私のロンドンはこんな塩梅なのです。
誰です!イギリスの料理は食べていないと言う方は?確かに代表的イギリス料理なるプディングも、フィッシュ&チップスもそしてハギスも食べていませんが要するに不味いものは無かったのですから・・いいじゃないですか??













2013年7月10日水曜日

すだち蕎麦

すだち蕎麦

元来、我儘で一筋縄ではいかない性格からか蕎麦の好みも相当うるさい。美味しいと思っている蕎麦屋でも、決まった蕎麦以外は滅多に頼まない。ましてや変わり蕎麦などもっての外、メニューにあると早々に閉じてしまうか退散する始末だ。
ところがその蕎麦は違った。
真夏の暑い日、疲れがたまって、昨晩の酒も胃に残り食欲がない。そんなときにこの蕎麦と出会ったのである。蕎麦屋の名前は「土山人」東京。私のオフィスから徒歩六分位のところにある。
同じ六分でも山手通りとこの目黒川沿いでは、この真夏は雲泥の差である。排気ガスと直射日光の照りつける大通りと違って、目黒川沿いは日陰があるし、時折ポツン、ポツンと並ぶ店の前には水が打たれたりしている。そんな目黒川沿いを歩いていくのだ。
その店は山手通りが目の前に大きくなる直前にある。階段を下りていくと三和土に瓦が嵌めこまれている。昭和初期に建てられた西欧建築というのは和洋折衷の趣があって良い。もっともこの場合の和は中国も視野に入れての東洋的という意味で使われるのだが、まあそんな事はどうでも良いがこの文人風雅な建物は私にとって気持ちがよいのである。
店内には皮のソファーが間を空けて置かれている。地下なのにドライエリアがあって日光が斜めに差し込んで明るかった。
運ばれてきたそれは一面に美しい緑色のすだちが広げられ、見るからに夏らしい。そして器の中にはそれ以外は何も見えない潔いものだった。
店員さんに聞くとすだちは食べないのだそうである。香り付けらしい。貧乏症の性分からか、すだちを家に持ち帰って何とかならないかと思案する間に妻はとっくにそのすだちを別の皿に移して蕎麦を食べ進んでいた。
蕎麦は細く、しかも適度なコシがあり、滑らかである。出汁は醤油と鰹節が控えめである。口に入れるとすだちの爽やかな香りが鼻腔をくすぐり、ほんのりと薄い酸味が喉を通って行く。あくまで薄く。蕎麦と出汁の相性もいい。蕎麦を食べ終え、出汁も飲みきった後に蕎麦湯がやってきた。ここの蕎麦湯は今流行りのドロドロ系と普通系の中間あたりだ。出汁は甘すぎず丁度良いが、蕎麦湯の香りがないのが残念である。
食べ終えて表に出る。真夏の暑い日差しが相変わらず、頭の真上から照りつけている。それでも幾分涼しくなったような気がするのは、すだちの成せる業か、それとも錯覚か・・・

追伸 写真はどちらも同じ店のすだち蕎麦、上が今年、下が昨年・・・美味しかったのは今年・・・小さな青いすだちにあたるかは時の運ですな・・・

出店 中目黒「土山人 東京」






2013年7月8日月曜日

地吹雪と坦々麺

地吹雪と坦々麺

一番好きなスキー場は何処かと尋ねられれば、迷わず志賀高原と答えるであろう。それくらいこのスキー場が好きだった。好きな理由はとにかく飽きないからである。コブの斜面を滑りたければ丸池のAバーンやジャイアント(近年はこのコブはなくなった)、新雪のパウダースノーを楽しみたければ寺子屋山や渋峠、ナイターなら一の瀬やダイヤモンド、そしてネイチャーウォッチをするなら奥志賀ととにかく様々なゲレンデでスキーの醍醐味を味わえる。当時、西武が焼額山を開発し始めた。まだ、完成はしていなかった。この広大な上信越高原国立公園の中には西武系のホテルがひとつも無かったからだ。苗場、万座、妙高、安比高原、東日本の至る所の一番良い場所にこの系列のホテルは立っていた。
志賀高原では私は一の瀬に逗留することが多かった。理由は安いからである。どこに出掛けるのも便利であるし、ナイターもできるからだ。しかしながら、この宿の朝食、夕食は酷かった。団体客ばかりなので、用意される料理はどれも冷めてしまっているばかりか、味付けは病院食の方がましな位無味である。
そんなときお昼が唯一の楽しみだった。当時、長野電鉄系列の丸池観光ホテルに四川料理のレストランが入っていた。店の名前は「志賀飯店」と言った。
今食べたら本当に美味しいのかどうか分からないが、冷えた体に暖かい坦々麺は美味しかった。問題なのはこの坦々麺一つで満腹にならない事だ。坦々麺とチャーハンをオーダーすると一日の予算が底をつく。そうなると夜は部屋で缶ビール1本のみで過ごさなければならない。それでも良いと意を決して坦々麺とチャーハンを頼んだ。
美味しいものを食べると心が豊かになる。あの時そう感じた。西館山からブナ平、高天原を通って一の瀬に戻る間中、満たされた気持ちで一杯だった。
丸池観光ホテルも、志賀飯店ももう無い。あのときの満たされた気持ちを求めて、食いしん坊の私は今日も都会のゲレンデを彷徨うのである。

出店 志賀高原「志賀飯店」





2013年7月4日木曜日

ニューヨーク・ニューヨーク

ニューヨーク・ニューヨーク

747はシラキュースの上空を通過し徐々に高度を下げた。この辺りはニューヨークの分水嶺である。分水嶺とは英語でwatershedという。峰の反対側に降った雨は決してマンハッタンには流れて来ない。
JFKは古い空港である。多くのターミナルは改装され綺麗になったが、日系の航空会社が到着するこのターミナルは昔のままだ。飛行機の発着表示板も今では珍しくなったパタパタと音がする旧式のものだった。帽子を被った制服を着た係の黒人の男性がカートを集めている。カートは蛇のように長く、くねくねと身をよじりながら所定の場所に吸い込まれていく。
イエローキャブはブルックリンブリッジを通過しようとしていた。運転手の男は頭にターバンを巻いていた。私の方をちらりとみるや日本人であることを確認すると、急に無言になった。私も無言のままぼんやり川沿いの高級アパートメントを眺めていた。ルーフトップでは新聞を読みながら日光浴をしている婦人がいた。
イエローキャブはチェックインとチェックアウトか重なり、混んでいるホテルの玄関を避け、裏通りに車を停めた。私はきっかりのチップしか払わず、荷物を持ち上げエントランスに向かった。運転手はチッと唾を吐きながらアクセルを吹かして、消えて行った。
このウォルドルフアストリアホテルはニューヨークでは由緒あるホテルだったそうである。もっとも近年では近代的タワービルヂングを建設し、宿泊者数を大幅に引き上げたので、私のような物見遊山の客も多くなった。
フロントでチェックインをしようとすると、年端のいかないフロントマンから先程入ってきた裏通りのデスクでチェックインをするように指示された。程のいい差別である。私はマネージャーを呼び、団体旅行でない事、さらにそのフロントマンの行為は人種差別であると痛烈に抗議した。お陰で部屋はワンランク上の部屋に変わったのであるが。
このホテルを選んだ理由は、今回是非食べてみたいと思っていたエッグベネディクトがこのホテルで発案されたとされる説があるからである。もちろん一説に過ぎないのだが。それは1894年、ウォルストリートの株の仲買人であるレシェル・ベネディクト氏が二日酔いの食事に何か軽いものを頼んだのが始まりであるというものだった。
もちろん別の説もある。こちらは後世にレシピまで発見され真贋論争に真実味を持たせたもので、ニューヨークのデルモニコスというレストランで1920年にイライアス・コーネリアス・ベネディクト氏が食べたとされるものである。いずれもベネディクト氏が食べた訳である。この料理が軽いと言う感覚自体、日本人には受け入れがたいと思うが、ようするにそうした由来なのだそうである。
そのホテルで食したエッグベネディクトは値段こそ高いものの、普通だった。いや、普通以下だったと言うべきだろう。それから色々な所に行ってこの料理を頼んでみたが、どれも大味で、総じてアメリカーンな味である。もはやこの料理はこれまでかと思っていたある時。
友人が社長をしていた汐留の外資系高級ホテルのレストランでこの料理を聞いてみると、あるというのだ。メニューにはないが作れるというのだ。早速、注文してみた。ビールを飲みながら待つ事暫く。そのエッグベネディクトは運ばれてきた。
白い大きな皿の上に丁寧に焼きあげられたマフィンが載せられ、その上に彩りよく調理されたホウレンソウが型に抜かれ乗せてある。そしてその上にピンク色のスモークサーモンが控えめに飾られていた。掛けられているオランデーズソースは新鮮な卵の黄身の色をしている。
口に運んだその瞬間。ウウ・・・旨いじゃないの。これ。ぜんぜん、アメリカーンじゃない。美味しい。サーモンもこのソースに合っているし、ホウレンソウがアクセントになっている。飛行機で1万キロ以上飛んで食べに行った本場のエッグベネディクトは何だったのと後悔することしきりであった。
会計を済ませ、レシートを見ると。目が点になった。***千円!!!もはや朝食ではない。

追記 このゴードンラムゼイが今年の5月に閉店したと言う。日曜日や月曜日に店を閉めていたので、ホテルのメインダイニングなのに大丈夫だろうかと心配していたのだが的中してしまった。ワインが高いとか巷では評価を二分しているようだったが、奇をてらわない本格フレンチはどれも美味しかったし、ソムリエにお任せしたワインは手ごろだった。何よりここのローストターキーはこんな美味しいターキーを食べた事が無い最高の上物だった。それもこれも友人のお陰である。持つべきものは何とやら・・・それでも季節は移ろう・・・同じ事は2度ないのである・・・



出店 ウォルドルフアストリアホテル
   コンラッド東京「ゴードンラムゼイ 閉店」






2013年7月3日水曜日

カリテ・プリとユトリロ

カリテ・プリとユトリロ

初めてパリを訪れた時、モンマルトルの丘のふもとにある小さなホテルに滞在した。石段の下でタクシーを降ろされ、大きなスーツケースを引きずりながらそのホテルの玄関に着いた時には辺りは真っ暗だった。
翌朝、辺りはまだ薄暗いのに小さな子供が親と一緒に石段を上っている。時計を見ると朝の九時近くになっていた。東京よりずっと緯度の高いパリでは11月の中ごろではまた陽が昇らない。
登校の子供達を窓から見るとでもなく眺めながら、疲れた胃に茹で卵を無理やり放り込むが、思ったように喉から下りない。仕方なく、水で流し込むが口の中が玉子の黄味で一杯になりなんともやるせない。
モンマルトルを散策した。ユトリロが絵描いた街がそのまま残されていた。ラパンアジルもサクレクール寺院も昔のままだ。街角の落書き一つとってもパリのものだった。
ホテルの前の小さな公園のベンチに腰を掛けていると、石段の下の方から2メートルは優に超える黒人がこちらの方に近づいてくる。私は気構えるが、相手は好相し、手を伸ばしてくる。相手は早口のフランス語で話しかけてきたが、こちらが一向に理解を示さないのを知るや、片言の英語で「ホワット・ユー・カム・フラム」と言う。私が「ジャパン」と答えると、相手は「アイ・カム・フロム・セネガル」という。その男が差し出した手はまるで野球のグローブのような大きさでゴツゴツしていた。
その男は「アイ ワーク ゼアー」と石段の下の店を指差した。私にどこで働いているのかしつこく聞く。私が旅行者だと言っても一向に信じてくれない。しまいには夜、私の働いている店に来いという。私が行ければと答えると、「マスト」と返して来た。
夜になってその店に出掛けた。昼間の彼は厨房の奥で仕事をしていた。皿洗いなどの雑用らしいが、私達を見るや近づいてきて、同時にウェイターに何やら話しこんだ。
私達は席に着き、この季節のお薦め料理を頼んだ。暫くして良く冷えたサンセールと共に運ばれてきた、それはバケツ一杯はあろうかという量のムール貝だった。
必死になってワインと共に凄い量のムール貝を平らげた。会計を済ませ、店を出ようとすると厨房の奥の彼が笑ってウィンクしてくれた。
ビストロのフランス料理を表す言葉にカリテとプロというものがある。文字通りカリテは質、プリは値段のことだ。この二つが調和されていなければならない。
彼の親切心は身に滲みたが、胃袋の小さい東洋人にとって味より、値段よりあの量で圧倒され、あとは分からなくなった。
そろそろムール貝の季節だ。あくまでカリテ・プリのものを・・・

出店 モンマルトル 店名不明